胞子感染

御影のたぬき

常在

Day 0

 ハナが初めてその患者を見たのは、四月の第二週だった。

 内科クリニックの受付に立って、問診票を受け取ったとき、患者の男性が言った。「なんか鼻がつまって、のども少しイガイガして。花粉、今年ひどいですよね」

「そうですね」とハナは答えた。「今年は飛散量が多いみたいで」

 男性は五十代で、スーツを着ていた。顔色は悪くなかった。ただ時々、目をこすった。

 問診票を担当医に渡した。担当医は三分で診察を終えた。「季節性のアレルギーですね。抗ヒスタミン剤を出しておきます」と言った。

 男性は薬をもらって帰った。

 その日、同じような主訴の患者が六人来た。鼻づまり、のどのイガイガ、軽い倦怠感。全員が「花粉のせいですかね」と言った。全員が薬をもらって帰った。

 ハナは帰り際に、同僚のリカに言った。「今日、花粉症の人多かったね」

「今年、特にひどいらしいよ」とリカは言った。

 ハナは自転車で帰った。

 夜、ニュースを見た。気象情報のコーナーで、花粉飛散量が例年の一・三倍という話をしていた。アナウンサーが「マスクの着用をお勧めします」と言った。

 ハナはテレビを消して、眠った。

Day 7

 一週間後、最初の男性が再診に来た。

 薬が効いていないという。症状は変わらず、むしろ倦怠感が増していると言った。

 担当医は薬を変えた。「アレルギーの種類によっては、薬が合わないこともありますから」

 男性は帰った。

 その日も、同じような患者が来た。花粉症の初診が七人、再診が三人。再診の患者は全員、薬が効いていないと言った。

 担当医がハナに言った。「今年の花粉、成分が違うのかもな。薬の効きが悪い患者が多い」

「そういうことってあるんですか」

「ある。植物の品種や、気象条件で変わることがある」

 ハナは納得した。

 夜、スマートフォンのニュースを見ていると、「花粉症薬が品薄」という見出しがあった。需要が多くて供給が追いついていないという。コメント欄に「うちの近くの薬局も売り切れてた」という書き込みが並んでいた。

 ハナは画面を閉じた。

 のどが少しイガイガした。

 花粉かな、と思った。

Day 14

 タカノが欠勤者の数を集計し始めたのは、四月の下旬だった。

 物流会社の管理職として、タカノはシフト管理を担当している。十五年その仕事をしてきて、インフルエンザの季節には欠勤者が増えることを知っていた。ただ今年は、時期がおかしかった。

 インフルエンザは冬のものだ。四月に、これほど欠勤者が増えることは過去になかった。

 今週の欠勤率は八パーセント。先週は五パーセントだった。先々週は三パーセントだった。

 タカノは上司に報告した。「欠勤者が増えています。体調不良が理由で」

「花粉の季節だからな」と上司は言った。「仕方ない」

「例年より多いと思うんですが」

「まあ、今年はひどいらしいから」

 タカノは引き下がった。

 翌日、担当ドライバーの一人が、配送中に道を間違えたという報告が来た。十年のベテランだった。「なんか頭がぼうっとして」と本人は言った。同じ日、別のドライバーが積み荷の数量を確認し忘れた。確認し忘れること自体、珍しいことではないが、二件が同じ日に重なるのは初めてだった。

 タカノはメモに書いた。

 欠勤率上昇、ミス件数上昇。関連を確認すべきか。

 メモを書いたが、提出しなかった。証拠が薄かった。確証がなかった。

 夜、タカノは妻に言った。「最近、社員が体調不良で休む人が多くて」

「花粉じゃないの?」と妻は言った。「私の職場でも多いよ。みんな鼻水出して」

「そうか」

 タカノはそれ以上言わなかった。

Day 21

 ハナのクリニックで、最初の医師が体調を崩して休んだ。

 倦怠感と軽い頭痛、集中力の低下。「ちょっと疲れただけ」と医師は言い、三日で戻ってきた。だが戻ってきてからも、どこかぼんやりしていた。カルテを見ながら、何かを確認しようとして、確認しかけて、止まる瞬間が増えた。

 ハナは気になったが、口に出さなかった。

 患者数は増えていた。今週は花粉症様症状の患者が一日平均十四人来ていた。再診率も高かった。薬が効かないという患者が半数を超えていた。

 気になったのは、ある再診患者の言葉だった。

 三十代の女性で、最初は「鼻づまりと倦怠感」で来た。今日の再診で、ハナが問診票を受け取ったとき、女性は言った。「なんか、言葉が出てこないときがあって」

「言葉が?」

「話そうとするんですけど、単語がすぐ出てこなくて。なんか頭の中で靄がかかってる感じで」

 ハナは問診票にそれを書き、医師に渡した。

 医師の診察は五分だった。「疲労性の症状ですね。少し休んでください」と言った。

 ハナは女性を見送りながら、何かが引っかかった。

 のどのイガイガは、まだ続いていた。

 市販薬を飲んでいたが、効かなかった。

Day 30

 カネコが孫の異変に気づいたのは、五月の始めだった。

 孫のユイは小学三年生で、カネコの娘の子だ。週に一度、カネコの家に来る。来るたびに何か話してくれるのが常だった。学校のこと、友達のこと、好きなアニメのこと。

 その日、ユイは来たが、あまりしゃべらなかった。

「どうした」とカネコは聞いた。

「なんか、つかれてる」とユイは言った。

 九歳の子どもが「つかれてる」と言うのを、カネコは初めて聞いた気がした。疲れという概念が、子どもにはあまりなかった。

 夕食を食べながら、ユイはぼうっとしていた。カネコが話しかけると返事をしたが、すぐにまた遠いところを見た。

 翌日、娘から電話が来た。「ユイ、学校休んでる。熱はないんだけど、体がだるいって言って」

「病院は」

「行ったけど、花粉症か疲労って言われた。薬もらって飲んでるけど、あまり変わらなくて」

 カネコは元校長として、子どもの体調について一定の知識を持っていた。花粉症で学校を休む子は毎年いたが、ここまで長引くことは少なかった。

 夜のニュースを見た。

 「各地で体調不良による欠席・欠勤が増加。医療機関は花粉症や季節性疲労と見ているが、長引くケースも」という短い報道があった。アナウンサーはそれを読んだあと、次のニュースに移った。

 カネコはテレビの前で、手帳に何か書こうとした。

 何を書こうとしていたか、少し考えてから思い出した。孫のことを、かかりつけ医に相談する、ということだ。

 書いた。

 手が少し重かった。

Day 45

 タカノの会社の欠勤率が、十七パーセントに達した。

 物流の現場で、便を一本運休にした。担当ドライバーが三人欠勤していて、補充がなかったから。それが初めての運休だった。クライアントからクレームが来た。タカノは謝罪の電話をかけた。

 電話をかけながら、タカノは自分の言葉が出てくるのに時間がかかることに気づいた。

 普通は謝罪の言葉はすらすら出た。十五年の経験で、そういう言葉は体に染みていた。なのに今日は、「大変ご迷惑を」と言ったあと、次の言葉が一瞬出てこなかった。

 クライアントは待っていた。

 タカノは「おかけしました」と続けた。

 電話を切ってから、タカノは少し座っていた。疲れているのだと思った。実際、今週は連日遅くまで残業していた。

 会議室に入ると、上司がホワイトボードを前に立っていた。欠勤対策の会議だった。上司が話し始めた。「現状、欠勤率が十七パーセントで」と言ったあと、止まった。

「で」と誰かが促した。

「そう、で、えーと」と上司は言った。「現状対策を、えー」

 会議室が静かになった。

 上司は五秒ほど止まってから、「資料を見てください」と言った。

 タカノは手元の資料を見た。資料の数字は正確だった。上司が書いたものだ。言葉は出てこなかったが、資料は作れていた。

 それがむしろ奇妙だった。

Day 52

 ハナのクリニックの担当医が、診察を途中でやめた。

 患者が問診に答えているのに、医師が黙って、カルテを見続けた。患者が「先生?」と呼んだ。医師が顔を上げた。「すみません、少し」と言って、立ち上がった。

 ハナが呼ばれた。「今日は診療を早めに終わります。患者さんにお伝えしてください」

「えっ、でも今日はまだ十二人予約が」

「すみません」

 医師は診察室の奥に入って、出てこなかった。

 ハナは予約患者に電話をかけた。謝罪の言葉を繰り返した。

 午後、クリニックに別の電話が来た。系列の病院からで、担当者が言った。「そちらの地域だけでなく、市内全体で体調不良の報告が増えています。医療機関もスタッフの欠勤が相次いでいて」

 ハナは受話器を持ったまま聞いた。

「新しい感染症の可能性を検討しています。情報が入り次第お知らせします」

 電話が切れた。

 ハナはしばらく受話器を置いたまま、カウンターに立っていた。

 外に出ると、空気が重かった。湿度が高かった。呼吸するたびに、のどの奥に何かが触れる感じがした。

 マスクをしていた。していたが、何かが通り抜けている気がした。

Day 60

 カネコは孫のユイが、ものを考えるのに時間がかかるようになっていることに気づいた。

 算数の宿題を手伝っていたとき、ユイが問題を解くまでに、以前より時間がかかった。答えは出た。正しかった。でも出るまでの時間が、二倍かかった。

「難しい問題なの?」とカネコは聞いた。

「ふつうの問題。なんかゆっくりしか考えられない」とユイは言った。

 カネコは黙った。

 翌日、テレビをつけると、ニュースが変わっていた。

「全国で報告されている体調不良の原因が、空気中の真菌の変異株である可能性が出てきました。専門家は——」

 アナウンサーが言葉を止めた。

 止まって、手元の原稿を見た。

 続きを読んだ。「——専門家は現在、調査を進めています」

 カネコはテレビを見ながら、アナウンサーが言葉を止めたことが気になった。原稿を読んでいるはずなのに、止まった。

 カネコはリモコンを持ち直した。

 リモコンが重く感じた。

Day 75

 真菌であることが確認された。

 報道は一日で世界を覆った。変異株、空気感染、神経系への影響、社会機能の低下。専門家がテレビに出て説明した。説明は正確だったが、専門家自身がときどき言葉を止めた。

 マスクの売り切れが翌日に起きた。

 翌々日、スーパーの棚が空いた。

 ハナのクリニックは閉まった。担当医が出勤できなくなったから。ハナは自宅待機を言い渡されたが、「自宅待機」が何を意味するのか、指示が不明確だった。

 ハナは家にいた。

 テレビをつけると、ニュースが流れていた。アナウンサーが原稿を読んでいた。長い文章で、アナウンサーは何度も詰まった。詰まるたびに、隣のアナウンサーが助けた。二人で一人分の原稿を読んでいた。

 ハナは画面を見ながら、何を考えようとしていたか忘れた。

 考えようとしていたことがあった。何か重要なことを考えようとしていた。

 思い出せなかった。

 テレビを見続けた。

Day 90

 タカノの会社は物流の三割を停止した。

 欠勤率が三十五パーセントを超えたから。残った社員で回せる量の限界だった。

 問題は欠勤率だけではなかった。出勤している社員も、判断が遅くなっていた。確認に時間がかかるようになっていた。ミスが増えていた。ミスが増えているのに、ミスを指摘するのにも時間がかかるようになっていた。

 タカノは毎日出勤していた。意志の力で出ていた。体が重く、頭に靄がかかっていたが、椅子に座って画面を見れば、数字は読めた。判断は遅くなっていたが、できた。

 ただ、何かを決めるたびに、その決断が正しいかどうかの確信が薄れていた。

 以前は、判断に迷うことはあっても、決断したあとは確信があった。今は、決断したあとも靄の中にいる感じがした。

 それが一番恐ろしかった。

 間違っているかもしれない、という感覚は以前からあった。でも今は、正しいかもしれない、という感覚も弱くなっていた。

 どちらの感覚も、薄くなっていた。

Day 120

 カネコは日記をつけていた。

 元校長として、記録することの習慣は三十年続いていた。毎晩、今日起きたことを書く。

 その日の日記に、こう書いた。

「今日もユイが来た。ユイは以前より静かになった。話す量が減った。でも笑う。笑い方は変わっていない。それが救いだ。娘は疲れている。仕事が半分以下になっているから、収入の心配をしている。私にできることは食事を作ることくらいだ。食事は作れる。手順を覚えているから。ただ、今日、味噌汁を作っていたとき、なぜ自分が台所に来たのか、少しの間分からなかった。鍋の前に立って、五秒ほど、何をするつもりだったか分からなかった。それから思い出した。これは老化かもしれない。でも違う気もする。分からない。ユイが笑っていた。それは本当だ」

 日記を書き終えて、カネコはペンを置いた。

 書けた。文章になった。

 それだけで安心した。文章が書けるということは、まだ考えられるということだ。まだここにいる、ということだ。

 翌日から、カネコは毎日、日記の量を確認するようになった。昨日より文章が短くなっていないか。昨日より言葉が少なくなっていないか。

 記録することで、自分の崩壊を測った。

Day 150

 ハナは外に出なくなった。

 外の空気が怖かった。マスクをしていても、何かが通り抜ける感じがした。実際に通り抜けているのかもしれなかった。

 政府から通達が来た。不要不急の外出を控えるように、という内容だった。「不要不急」という言葉を読んで、ハナはその言葉の意味を確認するのに少し時間がかかった。意味は知っていた。でも読んだとき、一瞬だけ、どういう意味だったか止まった。

 一瞬だけ。

 でもその一瞬が怖かった。

 スマートフォンでニュースを見た。

 世界中で同じことが起きていた。変異株は一つの地域のものではなかった。空気拡散型の胞子は国境を越えた。気流に乗って、半月で大陸間を移動した。

 ニュースサイトの記事は短くなっていた。

 最初は長い記事で、専門家のコメントも詳細だった。今は短くなっていた。ライターが書けなくなっていた。編集者が校正できなくなっていた。コメントする専門家も言葉が出てこなかった。

 記事が短くなるのが、社会の縮小を示していた。

 ハナは画面を閉じた。

 今日、何をしようとしていたか、考えた。

 思い出せなかった。

 何かしようとしていた。何か大切なことを。でも何かは出てこなかった。

 ハナは椅子に座ったまま、窓を見た。

 曇っていた。湿度が高かった。

Day 200

 タカノの会社は閉鎖した。

 閉鎖の手続きを、誰が行ったか、タカノには分からなかった。気づいたら閉鎖していた。メールが来て、「会社は業務を停止します」と書いてあった。

 タカノは家にいた。

 妻もいた。二人で家にいた。

 会話が減っていた。会話しようとすると、言葉が出てくるまでに時間がかかった。出てきた言葉が少なかった。相手も少なかった。

 沈黙が増えたが、不快ではなかった。

 それが怖かった。

 沈黙が不快ではないということは、言葉を必要としなくなっているということだ。言葉を必要としないということは、伝えたいことが減っているということだ。

 タカノは妻に言った。「俺たち、会話が減ったな」

 妻はしばらく考えてから言った。「そうかな」

「そうだよ」

 妻はまたしばらく考えた。「でも、いる」

 タカノはそれを聞いた。「いる」という言葉を聞いた。

 それで十分な気がした。

 それで十分な気がすること自体が、何かを失っている証拠だと、タカノは思った。

Day 270

 カネコの日記は短くなっていた。

 最初は毎日三百字から五百字書いていた。今は五十字から百字になっていた。

 今日の日記はこう書いた。

「ユイが来た。笑った。食事を作った。食べた。外は曇り。体は重い。でも書けた」

 書けた、と書いた。

 毎日、最後に「書けた」と書くようになっていた。書けたという事実が、今日もここにいるという証明だった。

 翌日、カネコはユイの顔を見て、名前が出てくるのに少し時間がかかった。

 三秒かかった。

 三秒後に出た。「ユイ」と言えた。

 ユイは何も言わなかった。言わなかったということは、気づいていなかったのかもしれない。あるいは気づいていたが、言わなかっただけかもしれない。

 どちらかは分からなかった。

 カネコはユイと食事をした。ユイは少ししゃべった。カネコも少ししゃべった。

 夜、日記を開いた。

 今日のことを書こうとした。

 何が起きたか、覚えていた。ユイが来た。食事をした。笑った。

 書いた。「ユイが来た。食事した。笑った」

 ペンを置いた。

 書けた、と書くのを忘れた。

 忘れたことに気づかなかった。

Day 365

 世界はまだあった。

 完全には終わらなかった。

 医療は続いていた。ただし機能は半分以下になっていた。物流は続いていた。ただし必需品のみだった。行政は続いていた。ただし法律の解釈が遅く、決定に時間がかかった。

 上層都市の建設が始まった。

 高性能空気浄化システムを備えた居住区。胞子濃度を管理できる環境。そこに住める人間を選別する基準が議論された。議論は長かった。長かったのは、議論する人々の言語能力が低下していたからだ。

 だが議論は続いた。

 言葉が遅くなっても、言葉はあった。

 判断が鈍くなっても、判断はできた。

 それが人類だった、とハナは思った。

 思ったのかどうか、後から確認する方法はなかった。その思いを言葉にできなかったから。

 ただ窓の外を見て、曇った空を見て、何かを感じた。

 感じた、という事実だけが残った。

Day 730

 二年後、世界はこう変わっていた。

 人々は呼吸装置をつけた。学校でも職場でも。外出時はもちろん、室内でも換気が徹底された。

 言葉は戻らなかった。完全には戻らなかった。人々は以前より少ない言葉で話した。でも話した。

 カネコの日記は続いていた。

 今日の日記はこう書いた。

「ユイが来た」

 それだけだった。

 でも書いた。

 書けた。

 それだけが、カネコに残っていた。

 菌はなくならなかった。

 人類は勝たなかった。

 負けもしなかった。

 ただ、世界は変わった。変わり終わることなく、変わり続けた。

 終末は来なかった。

 終末が、固定されたまま、続いた。

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