第5話 第三の難題・最高権力者は『存在しない記憶』に逃避する

赤坂の超高級料亭、その最も奥まった隠し座敷。

最高級の伽羅の香りが漂うその部屋には、この国の頂点に立つ男の「余裕」と「傲慢」が、ねっとりと満ちておりましたわ。


「……遅かったな、栄一。

まあいい、こっちへ来て俺の酒を注げ」


上座で胡座をかき、数人の美しい芸者を両脇にはべらせている男。

初代内閣総理大臣――伊藤博文ですわ。

くつろぐための上質な大島紬(男物の着物)を身に纏った彼は、大蔵省時代の元同僚であり、政治の世界で頂点を極めた男。

そして、無類の女好きとしても

知られておりますの。

彼にとって女とは

「国家という重圧を背負う男(自分)を癒やすための、美しい道具」でしかありませんわ。

わたくしが部屋に入るなり、伊藤さんは芸者たちに顎で合図をして下がらせました。

そして、わたくしを頭の先から爪先まで、ねっとりと舐め回すように値踏みいたしましたの。


「風の噂で聞いてはいたが……

まさか、これほどまでの『上玉』になっているとはな。

大蔵省にいた頃のお前からは

想像もつかん色気だ」


「お褒めに預かり光栄ですわ、伊藤さん。

……それで? 本日は『国立銀行条例』の

資金援助の件でお呼ばれしたと伺っておりますが」


わたくしが藍色のドレスの裾を翻して対面に座ると、伊藤さんは鼻で笑い、手元の朱塗りの盃を揺らしました。


「堅い話は後だ。国を動かすのは男の仕事。

女はな、小難しい顔をせず、美味い酒を飲んで俺の横で笑っていればいいんだ」


伊藤さんは、これまでの五代や岩崎とは格の違う、国家権力を背景にした『圧倒的な余裕』を見せつけてきましたわ。

彼にとって、東西の経済を束ねたわたくしでさえ

「ちょっと優秀で顔のいい、自分の都合のいい愛人」くらいにしか見えていないのでしょうね。

権力という絶対的な盾がある限り、自分が脅かされることなど微塵も考えていないのですわ。


「……栄一、お前、俺のモノになれ。

俺の横で、この国のすべてを支配する悦びを

味わせてやる」


さも「最高の特権を与えてやる」と言わんばかりの、傲慢極まりない誘い文句。


「ふふっ……」


わたくしは、純金の算盤をカチャリと鳴らし、極上の笑みを浮かべましたの。


「まるで、かぐや姫に求婚する公達のように

随分と立派なお宝(国家権力)を

ご用意なさいましたのね。

でも、わたくしは『与えられる』より

『奪い、支配する』方が好きですのよ?」


わたくしは立ち上がり、伊藤さんの座る上座へと歩み寄りましたわ。

そして、彼が手にしていた朱塗りの盃を奪い取ると、自らの唇に含み――そのまま彼の胸倉を掴んで引き寄せ、強引に唇を重ねましたの。


「んっ!? む、ぐ……っ」


伊藤さんの口内に、巴里万博で手に入れた『甘美な劇薬』を、酒とともにたっぷりと注ぎ込みますわ。

彼が喉を鳴らしてそれを飲み込んだのを確認し、わたくしはゆっくりと唇を離しました。


「……ぷはっ! お前、いきなり何を……っ、

な、んや、この熱は……っ!?」


不意を突かれた伊藤さんの顔から、余裕が消え失せましたわ。

額からは玉のような汗が吹き出し、呼吸は荒く、その端正な顔が苦痛と未知の快感によって赤く染まっていきますの。


「はぁっ、はぁ……っ!

身体の芯が……熱い……っ!

貴様、俺に何を飲ませた……っ!」


「あら? 毒などではありませんわ。

ただ、貴方様がわたくしに

『すべてを支配する悦び』を

教えてくださるというから、わたくしも少しだけ

極上の悦びをお返ししただけですの」


劇薬はすでに彼の全身の細胞を書き換え始めておりました。彼が誇りにしていた筋骨隆々の身体が、ミリミリと音を立てて縮んでいきますわ。

しかし、伊藤さんはここで、わたくしの予想を斜め上に超える行動に出ましたの。

激痛と快感に悶えながら、彼は不意に顔を上げ、血走った目でわたくしを鋭く射抜いたのです。



「はぁっ、はぁ……っ、一つ、聞こう……っ。

栄一……お前の好みの『市場(おとこ)』は

どんなタイプだ……?」




……は?


わたくしは一瞬、呆気に取られましたわ。

自分が謎の薬で女体化し始めているというのに、この人は一体何を血迷った質問をしていますの?

しかし、わたくしはすぐに気を取り直し、冷酷に微笑み返しました。


「己のすべてを捧げ、わたくしに

管理される雌……ですわ」


その言葉を聞いた瞬間。

伊藤さんの脳内で、劇薬の快感と、絶対的な権力者としてのプレッシャー、そしてわたくしの言葉が複雑に絡み合い――致死量のバグ(存在しない記憶)を引き起こしましたの。


「あ、あぁ……っ! そうか……そうだったな、

栄一……っ!!」


伊藤さんは突然、大粒の涙をボロボロとこぼし始めましたわ。

同時に、彼の身体の変容が完了いたしましたの。

男としての屈強な骨格は失われ、豊満で柔らかな曲線を持つ女の身体へ。

当然、今まで着ていた仕立ての良い男物の大島紬は、急激に縮んだ肩幅と膨らんだ胸に合わなくなり、肩からズルリと滑り落ちてだらしなくはだけてしまいましたの。

しかし、そんな自分の無防備で艶かしい姿など気にも留めず、女体化した伊藤(伊藤姐さん)は、わたくしの藍色のドレスにすがりつき、完全に焦点の合っていない瞳で語り始めましたわ。


「思い出したわ……大蔵省の狭い仮眠室……。

連日の徹夜作業で、プレッシャーに押し潰されて泣きそうになってたウチを、栄一が後ろから優しく抱きしめてくれたんよな……っ」



……はい? 仮眠室?


わたくしの顔から、スッと表情が抜け落ちましたわ。


「『博文ちゃんは頑張り屋さんだね』って

耳元で囁きながら……

ウチの初めてを奪ったんや……。

あの時、週末に二人で

浅草に行って買ったお揃いの赤い簪……。

ウチ、今でも大事にしてるで……っ!」



「…………」


わたくしは、純粋な恐怖とドン引きで、背筋が凍るのを感じましたわ。

大蔵省の仮眠室?

あれは、男たちの汗と煙草と酒の悪臭が充満していた、むさ苦しいオッサンたちの巣窟のことですの!?

そもそも貴方、あの頃は立派な髭を蓄えていらっしゃいましたわよね!?

初めてを奪う? お揃いの赤い簪!?

貴方の脳髄は、一体どんなお花畑に浸かってしまわれましたの!?


「あの日……ケチャップで『LOVE』って書かれたオムライス、作ってくれたよな……。

ウチら、ずっと前から

こういう関係やったやん……っ」


「……作っておりませんわ。

オムライスなどというハイカラなものを

振る舞った記憶も、ケチャップで文字を

書いた記憶など、断じてございません」


わたくしは冷や汗を流しながら、即座に事実無根を否定しましたわ。

しかし、完全に自分の脳内が作り出した

『存在しない限界百合妄想』に脳を焼かれた伊藤姐さんには、わたくしのツッコミなど一切届いておりませんでした。

彼女は、だらしなくはだけた着物の胸元からこぼれそうな双丘をわたくしの脚に押し付け、すっかり雌の顔つきで甘え腐ってきましたの。


「あぁ……

もう、憲法とか国会とか、どうでもええわぁ……。政治のプレッシャー、ほんまにキツかったんよ……。

ウチ、もう栄一の横でしか息できへん身体になってしもうたわ……」


伊藤姐さんは、傍らに落ちていた自分の煙管(きせる)を拾い上げ、気だるげに咥えながら、わたくしの膝の上にゴロリと頭を乗せましたわ。

その姿は、先ほどまでの傲慢な総理大臣の面影など微塵もない、ただ快楽と幻覚に依存しきった、ダメなヒモ女そのものでした。


「栄一ぃ……国政は全部お前に任せるから

大蔵省の時みたいに、ウチのことよぉしよしって

甘やかしてぇや……。

総理大臣なんて肩書き、もうポイって捨てたる。

栄一の膝の上で、いい子にするだけの

『お人形』にしてぇや……」


わたくしは、自分の膝でだらしなく蕩けた顔をしている最高権力者を見下ろし、小さくため息をつきましたの。

便利な手駒が手に入ったのは良いですが……

ただ薬の快感に溺れるだけでなく、自ら幻覚を作り出してまで現実から逃避しようとするこの姿。

――この男は一体、総理大臣としてどれほどの

『異常な重圧』を一人で抱え込んでいたのでしょう。

ただの遊び人だと思っていたこの男の奥底に、わたくしは途方もない闇の深さを垣間見た気がいたしましたの。


「……ええ。そうですわね、文ちゃん。

貴方はもう、小難しい顔なんてしなくてよろしくてよ」


わたくしは、引きつりそうになる頬の筋肉を必死で抑え込みながら、彼女の長い髪を優しく撫でてやりましたわ。

この男を真にコントロールするには、単なる雌の悦びだけでなく、その壊れた精神の奥底まで踏み入ってやる必要があるようですわね。

東の海運王、西の天才色事師、そして国の最高権力者。

かぐや姫の元へ現れた五人の求婚者のうち、これで三人をわたくしの市場(ハーレム)に組み込みましたわ。


「さて……残る『難題』はあと二つ、ですわね」


わたくしは、膝の上で幸せそうに幻覚を見ている伊藤姐さんの頭を撫でながら、まだ見ぬ次なる標的たち――かの大教育者と、かつての絶対的君主の顔を思い浮かべ、甘い溜息をこぼしましたの。


料亭の奥座敷の夜は、まだ始まったばかりですの。

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