第2話 第一の難題・余話〜筆頭株主の朝は、わがまま姫の甘い手ほどきから〜
目覚めた瞬間、まず感じたのは奇妙な「重み」だった。
胸元に、今まで存在するはずのなかった柔らかな二つの塊がある。呼吸をするたびにそれが揺れ、絹の寝間着越しに未体験の感触を伝えてくる。
そして、下腹部の喪失感。
あるべきものがなく、代わりに奇妙な空洞感と、昨夜の熱狂の名残のような鈍い疼きが渦巻いている。
「……な、なんじゃ、こりゃあ……夢じゃ、ないんか……?」
岩崎弥太郎は、豪奢な屋形船の寝室の天井を見上げ、呆然と呟いた。
声が違う。
低く唸るような男の声帯から発せられたはずの言葉が、高く、鈴を転がすような甘い音色となって鼓膜に届く。
混乱する頭で隣を見る。
そこには、この異常事態の元凶である
「資本主義の魔女」――渋沢栄一が、艶やかな長い黒髪を枕に広げ、満足げな笑みを浮かべて優雅に眠っていた。
昨夜の記憶が、暴力的な鮮明さで蘇る。
栄一の唇が、ワシの唇を塞いだ瞬間。
あの甘ったるい毒のような唾液が喉の奥へと流れ込み、ワシの血管を駆け巡った、あの感覚。
男としての誇りも、海運王としての野心も、全てが熱に浮かされたような快感の中でドロドロに溶かされ、気づけばワシは、恥も外聞もなく、高い声で啼いていたのだ。
「くそっ……!
ワシは、三菱の総帥じゃき!
こんな、女の身体になど……っ!」
岩崎は寝台から跳ね起きた。
逃げなければ
すぐにこの場を離れ、何らかの方法で元の身体に戻らねばならない。
商談が山積み なのだ。
だが、立ち上がろうとした瞬間、自分の視界の低さと、足元の頼りなさにバランスを崩した。
「あら、おはようございます。弥太郎さん。随分と早起きなのですね」
背後から聞こえた甘い声に、岩崎の背筋が凍りついた。
振り返ると、栄一が半身を起こしていた。
寝乱れた寝間着の隙間から、豊かな胸の谷間と、白磁のように滑らかな鎖骨が露わになっている。
黄金色の瞳が、獲物を狙う猫のように細められ、じっとこちらを見据えていた。
「え、栄一……っ!
おんし、ワシに何をしたんじゃ!
すぐに元に戻せ! でないと……っ」
「でないと、どうなさるおつもりで?
そのか弱い腕で、わたくしを殴りますか?」
栄一がクスクスと笑いながらベッドから降り立ち、ゆっくりと近づいてくる。
その一挙手一投足から溢れ出る圧倒的な「雌」としての自信と色香に、岩崎は本能的な恐怖を覚え、後ずさった。
「ひっ……よ、寄るな!
その、不気味な色の目で、ワシを見るんじゃねぇ!」
「ふふっ、怯えているお顔も可愛らしいですわ。
でも、まずは『女の子』としての
身嗜みを整えなくては
そんな無防備な格好では、はしたなくてよ?」
栄一の手が伸び、岩崎の腕を掴んだ。
男だった頃なら簡単に振りほどけたはずの力が、今は万力のように感じられる。
「さぁ、こちらへいらっしゃい。
可愛い筆頭株主さん」
抵抗空しく、岩崎は寝室の隅に置かれた大きな鏡台の前へと引きずられていった。
そこから始まったのは、岩崎にとって地獄のような、しかし抗いがたい快楽を伴う「お仕度」の時間だった。
「……痛っ、ぐぅ……っ!
き、きつい! 締めすぎじゃ、この馬鹿!」
岩崎の悲鳴が、朝の屋形船に響き渡る。
栄一は岩崎の身体に、複雑怪奇な構造をした西洋の補正下着――コルセットを巻き付け、その紐を容赦なく締め上げていた。
「我慢なさい。
美しいウエストラインを
作るための通過儀礼ですわ、ほら、息を吐いて」
「は、吐けるかそんなもんっ!
肋骨が折れるわ!」
ギリギリと締め上げられるたびに、呼吸が浅くなり、視界がチカチカとする。
行き場を失った贅肉が押し上げられ、胸元の二つの膨らみが、窒息しそうなほど強調されていく。
谷間にじっとりと嫌な汗が滲むのが分かった。
「ふふ、見事な眺めですこと」
「な、何を見て……ひゃうっ!?」
不意に、栄一の冷たい指先が、コルセットによって強調された岩崎の胸の谷間に滑り込んだ。
「なっ、おんし、どこを触っちょる!?」
「あら? 『筆頭株主』の資産価値を
確認しているだけですわ。それにしても……」
栄一の指が、汗ばんだ谷間の底をゆっくりとなぞり上げる。
岩崎の喉が知らず知らずのうちに鳴り、顔がカッと熱くなった。
「海運王ともあろうお方が、こんなにもたっぷりとした贅肉(しさん)を溜め込んでいたなんて。
無駄に大きくて、邪魔そうですわね」
クスクスと笑いながら、栄一はわざとらしく指先で胸の先端をツンと弾いた。
「んぅっ!? ……ば、馬鹿にするな!
これは筋肉じゃ! 鍛え方が違うきに……っ」
「あら、筋肉がこんなに柔らかく揺れるものかしら?」
反論しようと胸を張ると、豊かな双丘がプルンと大きく揺れた。
その視覚的な事実に、岩崎は言葉を失い、耳まで真っ赤に染まった。
「か、からかうな……っ!
早くそのヒラヒラした服を着せろ!」
「はいはい、仰せのままに、可愛い強がり屋さん」
ようやくコルセット地獄と恥ずかしい尋問が終わると、次はドレスだ。
栄一が用意していたのは、フリルとレースがふんだんにあしらわれた、黒と真紅のゴスロリ風ドレスだった。
三菱のシンボルカラーであることは認めるが、こんなヒラヒラした布切れは断じてワシの趣味ではない。
「な、なんじゃその、軟弱な服は!
ワシはもっとこう、動きやすくて、威厳のある……」
「お黙りなさい。
貴女にはこの色が一番お似合いですわ」
有無を言わさずドレスを着せ付けられる。
重たい生地が身体にまとわりつき、パニエで膨らんだスカートが足元を邪魔する。
鏡の中に映るのは、不満げな顔をした、どこぞのお人形のような少女だった。
これが、ワシ? 嘘だろう?
だが、屈辱はここで終わらなかった。
「さあ、仕上げですわ。ここに座って」
鏡台の前に座らされた岩崎の背後に、栄一が立つ。彼女の手には、高級そうな鼈甲(べっこう)の櫛が握られていた。
「ちょっ、何をする気じゃ!
髪くらい自分で……」
「あら? 貴女に女の子の髪結いが
できるのですか? その無骨な手で?」
栄一の挑発的な言葉に、岩崎はぐっと言葉に詰まった。確かに、男のまげを結うのとはわけが違う。この長く伸びた髪をどう扱えばいいのか、皆目検討もつかなかった。
「大人しくしていなさい。
最高に可愛くして差し上げますから」
栄一の指先が、岩崎の黒髪に触れた。
ゾクリ、と背筋に電流が走る。
昨夜の快感を記憶した身体が、栄一の接触に過剰に反応してしまうのだ。
櫛が髪を梳かす心地よい刺激。
栄一の指が首筋や耳元にかするたびに、岩崎の喉から情けない声が漏れそうになる。
それを必死で噛み殺し、鏡の中で赤くなっていく自分の顔を睨みつけた。
栄一は手際よく岩崎の髪を二つの束に分け、高い位置で結び上げていく。
ツインテールと呼ばれる髪型だ。
「……動かないでくださいな、弥太郎さん。
せっかくの可愛らしい髪型が崩れてしまいますわ」
「う、うるさい! こんな子供みたいな頭
……恥ずかしくて表を歩けるか!」
「うふふ、恥じらう姿も絶品ですわね。
では、最後に『魔除け』を」
栄一は化粧筆に鮮やかな紅(べに)を取り、岩崎の顔に近づけた。
「目元に赤を差しましょうね。
貴女のその鋭い三白眼が、もっと愛らしく
まるで嫉妬に狂って泣き腫らしたかのように見えますから」
「なっ……! ば、馬鹿にするな!
ワシは嫉妬など……んんっ!?」
顔を背けようとした岩崎の顎を、栄一の冷たい指先がクイと捕らえた。
逃げ場を失った岩崎の目尻に、筆先がそっと触れる。
くすぐったいような、熱いような感覚。
筆が動くたびに、心臓が早鐘を打ち、下腹部の奥がキュンと疼いた。
「ほら、鏡を見てごらんなさい。
見事な『地雷系令嬢』の完成ですわ」
栄一に促され、恐る恐る鏡を見る。
そこには、豪奢なドレスに埋もれるように座る、見知らぬ美少女がいた。黒いツインテールに、真っ赤に染まった目元。
不機嫌そうに歪んだ口元と、鋭い三白眼はそのままなのに、それがかえって危うげな色気を醸し出している。
「……くっ。こんな姿で商談に行けるか!
取引先が腰を抜かすわ!」
「あら? 行く必要なんてありませんわ。
貴女はわたくしの『筆頭株主』。
これからはわたくしの隣で、ただ可愛らしく微笑んでいればいいのです」
栄一が背後から岩崎の華奢な肩に腕を回し、その耳元にふうっと熱い息を吹きかけた。
「ひゃうっ!?」
岩崎は可愛らしい悲鳴を上げて身をよじった。
耳は弱い。昨夜、散々開発された場所だ。
「え、えいいち……っ、やめ、ろ……っ」
「うふふ。愛も富も、これからはみんなでシェアする時代。
貴女の手で、わたくしの市場(ハーレム)をどんどん広げていってくださいな」
その言葉が、岩崎の理性を繋ぎ止めていた最後の糸を焼き切った。
「……シェア、だと?」
トロトロに溶けかかっていた岩崎の三白眼に、ギラリと、かつての海運王をも凌駕する猛烈な独占欲の火が灯った。
岩崎は栄一の腕を乱暴に振り払い、ガバッと振り返った。椅子が倒れ、大きな音が響く。
「ふざけるな!!
ワシは誰ともシェアなどせん!!」
岩崎は栄一の胸ぐらを両手で掴み、鼻先が触れ合う距離まで顔を近づけて睨みつけた。
赤い目元のせいで、まるで血涙を流しながら嫉妬に狂っている悪鬼のように見えるだろう。
「おんしは何も分かっちょらん!
商売も、愛も、勝つか負けるか、奪うか奪われるかじゃ!
中途半端な共有など、弱者の戯言ぜよ!」
息を荒げ、岩崎は叫ぶ。
そうだ、これだけは譲れない。
たとえ身体が女になろうとも、この魂に刻まれた「独占」への渇望だけは、誰にも奪わせない。
「おんしのその甘い唇も、蕩けるような身体も、全部ワシのもんじゃ! 他の女になど、絶対に指一本触れさせんきに……っ!」
栄一は、胸ぐらを掴まれたまま、少しも動じなかった。むしろ、その黄金色の瞳を細め、岩崎の激情を愛おしむように見つめ返してくる。
「……強欲な子。そういうところは、男だった頃からちっとも変わりませんのね」
栄一の唇が、ゆっくりと弧を描いた。男を破滅へと導く、魔性の笑みだ。
「――っ!?」
岩崎が危機を察知して逃げようとした時には、もう遅かった。
栄一の手が岩崎の後頭部に回り、逃げ場を塞ぐ。
そして、次の瞬間、抗議の声を上げようとした岩崎の唇は、栄一の唇によって深く、強引に塞がれていた。
「んんっ……!? む、ぐぅ……っ!?」
昨夜のキスよりも、さらに深く、濃密な口付け。
栄一の舌が岩崎の口内を蹂躙し、上顎を撫で、絡みついてくる。
溢れ出した甘い唾液が、喉の奥へと強制的に流し込まれる。
「ん、ふぁ……っ、えい、いち……っ、あぁっ……」
激しい怒りと独占欲が、脳髄を痺れさせる快感によって、一瞬で上書きされていく。
コルセットで締め付けられた胸が激しく上下し、酸素が足りなくなる。
視界が白く明滅し、足の力が抜けていく。
「んん……っ、ぷはっ……!」
ようやく唇が離された時、岩崎は自力で立っていることすらできず、その場にへたり込んだ。
ドレスの裾が広がり、肩で息をしながら、潤んだ瞳で栄一を見上げる。
悔しい、憎い。
なのに、身体の芯が熱くてたまらない。
「はぁ、はぁ……っ、おぼえ、ちょれ……っ。
ワシは、絶対に、屈服など……せん、きに……っ」
震える声で精一杯の虚勢を張る。
だが、その声にはもはや昨夜までの力強さはなく、ただただ甘い、雌の響きだけが残っていた。
栄一は、そんな岩崎を見下ろし、純金の算盤をチャキリと一度だけ鳴らした。
「ええ、期待しておりますわ。
わたくしの可愛い、やきもち焼きの筆頭株主さん?」
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