第82話 自己犠牲
「試すって……何を?」
カティアが眉を寄せた。僕は答えなかった。言ったら、絶対に止められると思ったからだ。
代わりに、近くにいたヴェルル家の騎士へ手を出した。
「その外套、もらえますか?」
騎士は一瞬きょとんとして、それから慌てて肩の留め具を外した。
受け取って、端に指をかける。分厚い。普通なら、手では裂けない布だ。
一瞬だけ、体に力を通した。
ぶつり、と裂ける。半分になったのを片方ずつ、両手にぐるぐると巻きつけた。
「レイン様。何をなさるおつもりですか」
アントンの声が硬い。答えなかった。答えている時間が惜しかった。
「レイン様、まさか——」
ミラが気づいた。
でも、遅い。僕はもう格子の前に立っている。
両手を伸ばす。近づけるだけで、まつ毛がちりちりした。
一瞬、頭の中で過去の記憶が蘇る。
『火は僕を壊すもの』だ。
魔法の訓練では、自分を壊すものを自分で生み出すことがどうしてもできなかった。
——でも、これは魔法じゃない。自分で生み出していない。
火に近づくことは、できた。たき火や、暖炉の火に当たることもできた。
だったら、意思の力でもっと近づくことは不可能じゃないはずだ。
赤黒く光っている鉄の帯を、掴む。
布が、すぐに焦げた。
熱が抜けて手のひらに届くまで、数える間もなかった。巻いたところから黒く縮れて、ぼろぼろと崩れて落ちていく。
じゅう、と音がした。
手のひらが鉄に貼りついて、皮が縮れていく。白く泡立って、その下から赤いものが覗いた。指の付け根が黒く変わりかけて——そこへ緑の光が走る。黒くなりかけた場所が押し戻されて、新しい皮膚に置き換わった。置き換わったそばから、また焼ける。
焼ける。治る。焼ける。治る。
……釣り合ってる。僕の治療の速さなら。だったら、持てる。
魔力にものを言わせて持ち上げるだけなら、今の僕にでも。
何故かそんな確信があった。
「レインッ!!」
テレーゼお姉ちゃんが叫ぶ。
「やめて、放して! 放しなさい!!」
「レイン!! あんた何して——!」
カティアの声も重なった。横からミラの手が伸びてくる。僕の腕を掴んできた。すぐ後ろからはアントンが腰に腕を回して、引き剥がしにかかる。
「止めないで!」
僕は怒鳴った。こんな大きな声、久しぶりに出した気がする。
「僕だったら治るから!」
全力で身体強化を発動する。回復魔法の緑色と身体強化で使いきれなかった魔力が陽炎のように僕を包んだ。引き剥がそうとしてくる二人を、僕は強化に任せて無視した。
「——動かない!? どうして!?」
アントンの声だった。大人が二人がかりで引っ張っても僕の足は地面から離れなかった。
足を踏ん張って、さらに体に力を通す。ギギッと鉄が鳴って、格子が浮いた。
膝の高さで一度止まった。体勢が悪いらしい。片手ずつ引き剥がして掴み直すと、そのたびに新しいところが焼けた。
それでも、上がる。
腰の高さ。胸の高さ。
「カティア、ルッツさん、早く!」
ルッツさんが無言でカティアの肩を押した。
カティアは僕の手を見ている。泣きそうな顔だった。
「早く!!」
飛び込むように二人が格子をくぐる。すれ違いざま、カティアの低い声がした。
「……一人残らず殺してくるから」
ルッツさんは何も言わなかった。ただ、申し訳なさそうにこっちを見ただけだった。
二人の足音が山道のほうへ遠ざかっていく。
僕は手を離した。
格子が、どすん、と落ちた。土埃が上がって、それきり静かになる。ぱち、ぱちと火が鳴っている音だけが残った。
手のひらを見る。もう治っていた。赤くもないし、皮も剥けていない。いつもの手だ。ただ、じんじんしている。
皆が僕を抱きかかえて道の中央に運んだ。テレーゼお姉ちゃんが僕の手を両手で掴んで、そのまま泣き出した。
「どうして? レインが痛い思いをする必要なんてないはずなのに……」
「大丈夫だよ。ほら、治ってる」
僕は手を開いて見せた。
「痛いのは嫌いだけど、慣れてはいるからね」
ぎり、という何かを握り込むような音がした。
「——お説教は後です……道が開いているうちに撤退します!」
アントンが怒りを押し殺したように顔を上げて、声を張った。
そうだ。リーナが開け続けてくれている道がいつまで持つのか分からないんだった。
だけど、歩き出そうとしたら、膝が言うことを聞かなくなった。
「……ごめん」
体が重い。目の奥が、じわっと暗くなっていく。
「ちょっと、疲れちゃった。歩けないみたい……」
倒れる僕を、誰かが受け止めた。
「レイン様!」
リーナの声だ。それから、ミラの声。担ぎ上げられて、体が揺れる。火の音が遠くなっていく。
誰かが僕の名前を呼び続けていた。
◇◇◇
私は、進めずにいた。
岩に挟まれた細い道は、人ひとりがようやく通れるだけの幅しかない。その前を背中が塞いでいる。畑で働かせていた者たちと、王都から連れてきた魔法使いだ。
どうでもいい者どもが、私の前を塞いでいる。
「さっさと進め!」
言ってはみたが、遅々として進まない。戦闘の後で疲れているのは分かるが、のろのろとした動きだった。
腕が熱い。あの田舎騎士に裂かれた傷だ。浅いはずなのに血が止まらず、布を巻いても、巻いた端から赤くなっていく。
……回復の使い手の一人も置いておらぬとは。これだから辺境は嫌になる。
火は砦のほうで燃え盛っている。あれが燃えている限りはここまでは来られないだろう。
——流石にそれまでには間に合うだろう
入り口を越えてしばらく行けばすれ違えるほどの道幅はある。こいつらを囮にしてでも尾根を越えれば、馬が用意されている場所に出るはず。後は大回りして王都に戻れば済むだけだ。
そう。早く王都へ戻らねばならない。殿下にご報告することが山ほどある。こんな土地に、これ以上留まる理由はない。
前がまた少し動いた。しかし、それもほんの僅かなものだった。
「もういっそ背中から切り捨てて進むべきか?」
そう呟いたとき、後ろから足音がした。
振り返った。
炎を背にして、二つの影がこちらに向かって走ってくる。片方は剣を提げた痩せた男。もう片方は、身の丈より長い斧槍を担いだ小柄な娘。
「馬鹿な!? もうあの門を越えて来たのか!?」
面倒なことになった、その時の私はそう軽く考えていた。
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