第32話 【閑話2:休憩時間】

午後三時。


 ダンジョンのリビングに、コポコポという穏やかな水音が響く。


 聖女が丁寧に注ぐ紅茶が、白磁のカップから揺らめく湯気を立てていた。東方の高級茶葉「ゴールデン・ティップス」。その芳醇な香りは、カビと埃、そして千年の停滞に支配されたこの地下空間において、唯一の「文明」の主張として漂っている。


 俺は革張りのソファに深く沈み込み、カップを手に取った。


 優雅な手つき(と自分では思っている)で、それを口元へ運ぶ。


 傾ける。


 熱い液体が、顎の骨を通過する。


 当然だが、喉仏も食道もない。琥珀色の液体はそのまま、何もない頚椎の空間を滑り落ち、肋骨の隙間を素通りして、重力に従い落下する。


 ジャァァ……。


 床に敷かれた防水シートの上に、紅茶が盛大な音を立ててこぼれ落ちる。


 摂取効率、ゼロ%。


 物理現象として見れば、ただ床を汚しているだけの奇行に過ぎない。


 だが、俺にとっては違う。


 顎骨を伝う熱。鼻腔があったはずの空洞を満たす香り。そして何より、「ティータイムを楽しんでいる」という厳然たる事実。


 それらが脳内のストレス値を引き下げていく。これは栄養補給ではない。摩耗した精神のメンテナンスだ。


「……また、派手にこぼしましたね」


 呆れたような、けれど角のない声。


 聖女が、手慣れた様子で足元のシートを拭き取っていく。


 彼女の手元には、俺の健康管理日誌――かつては教会へ送るためのスパイ報告書だったもの――がある。


 そこには、俺が赤ペンで書き込んだ大きな『花丸』が、今も鮮やかに残っていた。


「勿体ないです。希少な茶葉なんですよ」


 文句を言いながらも、彼女の手は俺の肋骨についた雫を丁寧に拭っている。


 その指先は温かい。


 かつては「討伐対象」に向けられていた殺意も、「監視対象」に向けられていた緊張も、そこにはない。


 あるのは、手のかかる老朽化した備品を愛でるような、諦めと愛着の混じった職人の手つきだ。


 俺は、サイドテーブルの筆談ボードを引き寄せた。


【カオリ ガ ウマイ】


「……味覚はないでしょうに」


 彼女は苦笑する。


「でも、わかります。……ここには、余計な音がありませんから」


 彼女は自分のカップを手に取り、ソファの隣――俺の指定席のすぐ傍に腰を下ろした。


 カチン。


 陶器がソーサーに触れる、小さな音。


 換気口からの風音。


 薪が爆ぜる音。


 そして、俺たちの沈黙。


 組織の論理も、勇者の騒音も、ここにはない。


 あるのは、生産性のない時間を許容し合う、共犯者たちの呼吸だけ。


「……デスナイト様」


 彼女が、湯気の向こうでポツリと呟く。


「明日は、トマトの収穫日ですね。勇者様が『僕が全部運びます!』と張り切っていましたよ」


【アイツ ハ ウルサイ】


「ふふ。でも、貴方はまた、彼に一番赤い実をあげるんでしょう?」


 俺は肩をすくめた。骨がカチリと鳴る。


 否定はしない。


 労働には、適切な報酬が必要だ。それだけのことだ。


 彼女が、俺の右肩に手を伸ばす。


 いつもの場所。マナの澱が溜まる、慢性的な凝りの震源地。


「……少し、淀んでいますね。雨が近づいているのかもしれません」


 指先に、淡い光が灯る。


 浄化魔法。かつて俺を滅ぼそうとした光が、今はじんわりと凝りを溶かしていく。


 ああ。


 いいな。


 俺は、眼窩の青い光を、とろりと弱めた。


 永遠に、この時間が続けばいい。


 誰にも邪魔されず、世界がどうなろうと知ったことではなく、ただこの狭いリビングで、茶をこぼして、拭いてもらう。


 そんな、ささやかで怠惰な「永遠」を。


【チャ タノム】


「はいはい。……今度は、もう少し上手に飲んでくださいね」


 琥珀色の液体が、再び注がれる。


 それは、世界が壊れる前の、最後の平穏な午後のことだった。

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