第18話 【スパイ2】

私は、逃げ込むようにダンジョン内の自室へと戻り、冷たく重い鉄の扉に背中を預けた。


ハァ、ハァと、凍りついた肺から荒い呼吸が漏れる。雨水をたっぷりと吸い込んだ純白の修道服が、泥のように重く肌に張り付いていた。これを脱がなければ。教会の「耳」である通信水晶を外し、ただの私として、あの人の元へ行かなければ。


わかっているのに、修道服の留め具にかけた指先が、小刻みに震えて動かない。


怖い。


この服は、私を縛る鎖であると同時に、私の有用性を保証してくれる唯一の鎧だった。これを脱ぎ捨ててしまえば、私はただの汚れたスパイになってしまう。何の価値もない、空っぽの人間として、あの人に拒絶されるのがたまらなく恐ろしい。


――それでも。


私は奥歯を強く噛み締め、冷たい布地を引き剥がすように脱ぎ捨てた。


重厚な布の塊が、ドサリと床に落ちる。


私は、銀の耳飾り、首飾り、髪留めを次々と外し、机の上に置いた。カチリと冷たい金属音が響くたび、私を縛っていた監視の目が一つずつ切り離されていく。固く結い上げていた亜麻色の髪が、力なく肩に崩れ落ちた。


簡素な灰色のチュニックとズボンだけを身に纏い、鏡の前に立つ。


そこに映っていたのは、威厳に満ちた聖女などではない。血の気を失い、震えている、ひどくちっぽけで無防備な一人の女だった。


薄い布地越しに地下の冷気が肌を撫で、ブルリと震えが走る。でも、もう迷いはない。


彼が私を殺すなら、それでいい。けれど、嘘をついたまま彼の傍で笑い続けることだけは、もう絶対に嫌。


私は震える両手でチュニックの裾を強く握りしめ、彼の待つ部屋へと歩き出した。



私は、ノックもせずに重厚な鉄の扉を押し開ける。


ギィ、と軋む音が、暖炉の薪が爆ぜる静寂な空間に吸い込まれていく。マッサージ用の寝台にうつ伏せになり、微睡もうとしていた彼が、反射的に顔を上げた。


兜の奥の青い炎が、戸惑うように揺らめく。無理もない。今の私の姿は、いつもの私とは全く違うのだから。


「時間がありません。どうか、聞いてください」


自分の声とは思えないほど、ひどく切羽詰まった音だった。極度の緊張で喉が渇ききり、砂を噛んだようにひび割れている。部屋の中央で立ち尽くす私の指先は、血の気を失って真っ白になり、チュニックの裾をちぎれるほどの力で握りしめていた。


「ご存知の通り……私は教会の命令で、貴方を討つために派遣されています」


カシャリ、と硬質な音が響く。


彼は寝台からゆっくりと身体を起こし、真正面から向き直って、私の瞳を真っ直ぐに見据えた。責めるでもなく、ただ静かに深淵のような青い光を向けてくる。その沈黙が、今の私にはどんな怒号よりも恐ろしい。


浅く早い呼吸を繰り返し、薄い胸元が苦しげに上下する。私は、肺の底に溜まった鉛を無理やり押し出すように、言葉を紡いだ。


「今日この服で来たのは、いつもの制服とアクセサリに教会の“耳”……盗聴用の通信水晶が仕込まれているからです。それを全て……外してきました」


「……今はあなたの弱点を探る命令も受けています。でも、報告が薄い、成果がないと疑われ始め……」


言葉を切り、震える唇をぎゅっと結んで、血の味が滲むほど強く噛み締める。


「とうとう今日、最後通牒が来ました。成果が出なければ私は更迭され、代わりに『殲滅部隊』が送り込まれる、と」


殲滅部隊。


それは、私が処分されるというだけの話ではない。この静かなダンジョンが、彼が愛した暖炉の火が、すべて蹂躙されて破壊されるということ。自分の命が失われることへの恐怖はある。ただ、それ以上に、私が騙し続けてきたせいで、彼の居場所まで奪ってしまうという事実が、胸を切り裂くように痛い。


ポタ、と。


大粒の雫が、冷たい石畳に落ちて黒い染みを作った。


スパイとしての重圧と、彼への耐えがたい罪悪感。極限まで張り詰めていた神経の糸が、ついに限界を迎えて崩落していく。視界がぼやけ、次々と溢れる涙を止めることができない。


彼は、身動き一つせず、じっと私を見ている。


ただ、暗い眼窩の奥で揺れる青い炎が、ジリジリと熱を帯びていくのを感じる。


彼が手を強く握りしめる。怒っているのだ。当然だわ。ずっと信じて傍に置いてくれていた相手が、自分の寝首を掻くためのスパイだったのだから。


怒鳴ってくれれば、殴ってくれればどれほど楽だろうか。けれど彼は、不気味なほど落ち着いた動作で、サイドテーブルから無言で筆談ボードを引き寄せた。


キュッ、キュッ、キュッ。


静寂に、硬いペンの音が響く。


迷いのないその動きは、まるで死刑判決を書き殴っているかのよう。私の呼吸が浅く痙攣し、冷え切った指先が震え続ける。


そして、彼が手首を返し、その黒いボードを私の眼前に突きつけた。


【イマサラ ソレガ ドウシタ】


瞳が、無骨なカタカナの羅列を追う。


――え?


呼吸が、完全に停止した。頭の中が真っ白になり、時が止まったように凝固する。拒絶の言葉を待っていた私の網膜に、その言葉が信じられないほどの熱を持って焼き付いた。


裏切り者である私を、許すというの? そう言ってくれるの?


ヒッ、と喉の奥が痙攣し、言葉にならない息を呑む。


胸の奥底で、固く凍りついていた何かが、一気に音を立てて決壊していく。熱いものがこみ上げ、私は嗚咽を堪えるように両手で強く口元を覆った。すべてを許容し、私の存在そのものを肯定してくれたその無骨な優しさに、祈るように深々と頭を下げる。


これ以上、彼の前で醜く泣き崩れるわけにはいかない。


私は踵を返し、逃げるように、けれど迷いのない確かな足取りで部屋の外へと駆け出した。


バタン、と重い扉が閉まり、冷たい石の廊下へと出た。


外の雨音は相変わらず冷たい。けれど、私の胸の奥には、彼が与えてくれた不器用で確かな熱が、小さな太陽のように灯っている。


私は自室へ向かって走り出した。あの通信水晶を完全に破壊し、教会の鎖を断ち切って、もう一度、彼が待つあの温かな場所へ帰るために。

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