第12話 【宿直室】

ダンジョンの深層にある訓練場。


石造りの広大な空間に、奇妙な風切り音が反響している。


ブン、ブン。


質量のない腕が空気を薙ぐたび、何もない肋骨の檻の中で、ヒュウヒュウと虚しい音が木霊する。


俺は、目の前に出現した「境界」に向け、漆黒のガントレットに包まれた拳を突き出した。


ガィンッ!


薄い金色の膜に触れた瞬間、運動エネルギーがゼロになる。


絶対的な物理拒絶。だが、その代償は明白だった。


聖女が、杖にしがみつくようにして膝を震わせている。その顔色は、蝋のように白い。


ただ硬くするだけで、これほどの燃費(コスト)がかかるのか。


「……い、いかが、でしょうか……」


少し離れた場所で、聖女が杖を構えたまま尋ねてくる。その額には玉のような汗が滲み、純白の修道服の襟元が、じっとりと肌に張り付いている。


彼女はごくりと喉を鳴らし、上司の決裁を待つ部下のように言葉を継いだ。


「……貴方を“閉じ込める檻”としては、合格ですか」


俺は無言で頷き、親指を立てた。承認だ。


完璧だ。断絶として機能している。


俺はすぐさま、懐から小瓶を取り出した。勇者が街で買ってきた、安物のスタミナポーションだ。


それを聖女の方へ放り投げる。


「え……?」


聖女が慌ててそれを受け止める。


俺は筆談ボードを取り出し、殴り書きして突きつけた。


【キュウケイ ノメ スワレ】


「い、いえ、まだ大丈夫です。検証項目の消化率はまだ30%で……」


【キャパ オーバー ハ ヒコウリツ】


俺は訓練場の隅にある木箱を指差した。


顔色が悪い。指先が震えている。そんな状態で実験を続行しても、データの信頼性が落ちるだけだ。何より、目の前で部下が倒れるのを見るのは、前世のトラウマを刺激して胃に悪い。


俺が腕組みをして無言の圧力をかけると、聖女は観念したように小さく息を吐いた。


「……恐れ入ります。休憩、させていただきます」


彼女は木箱に腰を下ろし、ポーションをちびちびと飲み始めた。


十分な休息(アイドルタイム)を確保する。それもまた、重要な業務の一環だ。



数十分後。顔色が戻った彼女に、俺はこの魔法の「他の可能性」について尋ねた。


ガリ、ガリ、ガリ。


【ボウオン キノウ ハ?】


「防音、ですか?」


彼女は眉を寄せ、真面目に答える。


「……概念的な遮断効果はありますが、音波を完全に無効化する術式ではありません。あくまで空間の不連続性により、空気の振動を減衰させる程度かと」


聖女の答えに、俺は少し考え込む。


減衰。それだけでも御の字だ。


いわゆるノイズキャンセリング機能か。


勇者の無駄にデカい声、魔物の下品な咆哮、ダンジョンの換気音。俺の安眠を妨げる環境ノイズを、少しでもカットできるなら導入価値はある。


【ジッケン スル ナカ ハイル】


俺はジェスチャーで示し、展開された結界の内側へと足を踏み入れた。


聖女が杖を振るう。


ブォン、という低い重低音と共に、俺の周囲の位相が変質した。


薄い金色の膜に包まれた瞬間、鼓膜(ないけれど)にかかる圧力が変わる。


深水に潜ったような、あるいは分厚い防弾ガラスの向こう側に世界を置いたような、奇妙な閉塞感と静寂。


聖女が何かを言っている。口が動いているのが見える。


だが、声は遠い。


水槽の外から話しかけられているような、あるいは隣の部屋でテレビが鳴っているような、輪郭のぼやけた音。


……悪くない。


世界との間に一枚フィルターを挟んだような、心地よい隔絶感がある。


これなら、寝室の壁に施工すれば、二重サッシのような断熱・防音効果が期待できるだろう。湿気対策にもなる。壁のカビともおさらばだ。


俺は満足げに頷き、結界を解くよう合図した。


「……本来は、次元の裂け目を塞ぐような、高尚な目的で作られた魔法のはずなのですが」


聖女は結界を解除しながら、呆れたように、しかしどこか楽しげに口元を緩めた。


「失われた封印術が、寝室の断熱材(コーキング)扱いされるとは。……古代の魔導師も草葉の陰で泣いていますよ」


笑った瞬間、彼女はハッとして咳払いをし、慌てて視線を逸らした。



その夜。


俺は、聖女に頼んで寝室全体に『境界』を施工してもらい、寝台に横たわった。


静かだ。


いつもなら耳につく換気口からの風音も、地下水脈のせせらぎも、遥か遠くの出来事のように遠のいている。


完璧な寝室。理想的な労働環境の保全。


……なのに、なぜだろう。


眠気が訪れない。


絶対的な静寂の中で、俺は自分の手を見た。


闇に白く浮かぶ骨。肉のない指。


この「境界」は、俺が望んだものだ。世界から自分を切り離し、安全な場所に閉じこもるためのファイアウォール。


だが、それは同時に、俺がこの世界にとって「異物(バグ)」であり続けることを確定させる、透明な檻(ケース)のようにも思えた。


帰る方法はない。


この魔法は、俺を元の世界へ連れ戻してはくれない。ただ、この異世界の中で、俺を真空パックして孤独にするだけだ。


……これでいいのか?


ふと、そんな思考が頭をもたげる。


俺は逃げているだけではないのか。過労死した前世からも、骸骨になった現世からも。


鏡を見るのが怖い。兜を脱ぐのが怖い。


中身のない自分を直視するのが怖いから、俺は「安眠」という大義名分に逃げ込み、壁を作って引きこもっているだけではないのか。


胸の奥――心臓があったはずの空洞に、冷たい風が吹き抜けるような、スースーとした虚しさを覚える。


俺は、ガシャンと硬質な音を立てて寝返りを打った。


考えるな。


今は、この静けさを享受すればいい。余計な思考はリソースの無駄だ。


思考を強制終了し、意識を闇へと沈めていく。


明日もまた、あの騒がしい勇者が来るだろう。聖女がキッチンで朝食を作る匂いが、換気口から流れてくるだろう。


そのささやかな「日常」だけが、今の俺を世界に繋ぎ止めている唯一の錨だった。


壁の向こうで、何かが軋む音がした気がした。


だが、完璧な防音結界のおかげで、それはすぐに意識の底へと消えていった。


俺は目を閉じる。


それは安息の眠りというよりは、世界に対する緩やかな拒絶だった。

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