2
焼き立てのパンの匂い、扉が開く度に鳴るベルの音。
子供の頃のパン屋は、いつも賑わっていて。
何時からだろう。商店街の音が減ったのは。
石畳を蹴る靴音、すれ違う人の風貌は様々だった。
「あれ、今朝の分はこれだけ?」
いつものようにパンを並べる手伝いをしていた私は、思わず顔をしかめた。
「そ。今日はそれだけ」
「流石に少なくない?」
トングを片手に振り返れば、疲れた顔の母親が腕を組んでいる。
「でも廃棄のリスクを考えれば、それで十分よ」
きっかけなんて、思い当たらない。けれど確実に、商店街の客足は遠のいていた。
私の店も例外ではなかった。仕方ない、のだと思う。
「そろそろ時間じゃないの?」
「そうだね。いってきます」
仕事用のエプロンを脱ぎ、流れるように家を後にする。
寂れた空気が支配する中、春の日差しだけが、場違いな程に暖かかった。
「じゃあ、また明日!」
同級生の女の子に手を振って、別れを告げた私は、一人いつもの道を歩く。
賑わう街中から一転、商店街のゲートを潜れば、一気に静けさが襲ってくる。
この空気にも、すっかり慣れてしまった気でいたけれど。
「人、いないなぁ」
ふいに、足元がぐらつくような錯覚。嵐が訪れる前夜の、静寂。
囚われたところで、意味は無い。
帰ろうとした、その時だった。
「よっす」
聞き慣れた声で振り返ると、そこに立っていたのはBだった。
「……あ、お疲れ。そっちも今帰り?」
「そー。お疲れさん」
こうして話をするのは何時ぶりだろうか。
とうの昔に声変わりしたBの声は、私のものよりも低くて。
「あれ?」
視線をやった口元には、軽いすり傷が出来ていた。
「なぁに、喧嘩でもしたの?」
「んな訳あるか。俺を幾つだと思ってるんだよ」
そんなものは子供のうちに終わらせたのだと、Bは言う。
家に着くまでの間、私とBは肩を並べて歩いた。
「最近、ますます授業が難しくてさ。Aは?」
「まぁ、普通かな。予習は必須だけど」
当たり障りのない会話。
一つ話題を振っても、すぐに途切れ気まずい沈黙が流れるだけ。
「C、最近どうしてるんだろ」
私は進学校に通っている彼を思い浮かべた。
「さぁな、忙しいんだろ」
やっぱり続かない会話に、気付けば家は目の前だった。
「あー……じゃあ、またな」
Bがそう言って背を向けかけた時、私は思わずその袖を掴んだ。
「やっぱり、ちょっと待って」
戸惑った声が、近い。
「はい、これ」
鞄から絆創膏を取り出すと、Bは露骨に顔をしかめた。
「せっかくだから、貼ってあげる」
「いや、いいって。別に、いいから」
必死に抵抗する彼の頬が染まって見えるのは、夕日のせいだろうか。
背伸びをして、彼の頬に触れようとした。その時だった。
カツカツと、どこからか乾いた靴音。
規則正しいそれは、迷わずこちらへ向かい、やがて立ち止まった。
「……相変わらずだね」
夕暮れに浮かび上がる輪郭。
見慣れていたはずのそれも、今は遠く感じる。
「C……?」
「やぁ、久しぶり」
Bは貼りかけの絆創膏を抑え、勢い良く私から離れる。
「……いつからいた」
「さっきから。声が聞こえたから」
柔らかな微笑みは、昔と変わらないはずなのに。
飄々とした立ち振る舞い、つかみどころの無い声色。
整った身なりは、昔よりもずっと洗練されていて。
だからだろうか、Bが探るような目をしているのは。
「商店街、少し歩いてたんだ。せっかくだから、三人で回らない?」
懐かしい提案に、Bは少し悩んでから頷いた。
「この辺りは、食べ物の店が固まってたよね」
見慣れた商店街に、懐かしい三人の足音が響く。
一番に駆け出すのはB。
私はそれに続いて、最後はいつもCだった。
けれど今は、Cが先頭を歩く。
シャッターの降りた店が目につく商店街に、彼は何を思うのだろうか。
やがて立ち止まったCは、懐かしそうにとある店頭を眺めた。
「ここのコロッケ、美味しかったな。まだやってたんだ」
結局三人分を買って、紙袋を片手に広場へと。
「ほら、立ち食いはお行儀が悪いから」
「別に、誰も見てないだろ」
軽口を叩きながら、広場のベンチに腰を下ろした。
視線の先には花壇。土は乾き、雑草が目立っている。
「……忙しくてさ」
Bがぽつりと呟いた。
誰に向けた訳でもない言い訳に、私は慌てて笑った。
「でも、春のお祭りが始まったらまた華やかになるよね。懐かしいな、覚えてる?
Bったら、おじさんに怒られてたよね」
思い浮かべるのは、あの日の午後。春の風と、賑わう商店街。
お使いに行ったきり戻らなかった私も、心配した親に怒られたんだっけ。
「……らしい」
Bはコロッケを見つめながら、小さく言った。
「……商店街、再開発するらしい」
だから祭は開催されないのだと。
「でも、まだ決まってないよ」
噂自体は、私も聞いていた。
けれど反対意見が根強く、今日まで実行はされなかったはずだ。
「どうかな。古い商店街で、客足も遠のいている。現実的な話だと思うよ」
Cが淡々と口を挟んだ。
驚いた私が何も言えずにいると、Bは静かに彼を睨みつけた。
「なんだよ、それ」
重く張りつめた空気が今にも弾けそうな中、Cだけが変わらないまま。
「Cは困らないもんな」
「そうだね。僕は何にも困らないよ」
「……お前、変わったな」
Bが薄っすらと漂わせていたCへの警戒は、明確な敵意へと変わる。
私は、その場を誤魔化すことしか出来なかった。
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