後編 陽光の切れ間

 佐伯の行動は迅速であり、同時に破滅的でもあった。

 彼は自らが心血を注いで築き上げた都心の邸宅を二束三文で売りに出し、手元に残った莫大な資産のほとんどを、一度も訪れたことのない遠い国の孤児院や慈善団体へと寄付した。周囲の弁護士やかつての同僚たちは、彼が老いによる狂気に憑かれたのだと囁き合ったが、佐伯にとってそれは、重すぎる足枷を一つずつ外していくような、清々しい解放感に満ちた作業だった。


 彼が向かったのは、すべての原点であり、幸福がかつてそこに留まっていたはずの場所――あの『若葉荘』の跡地だった。

 しかし、三十年という月日は、思い出を物理的に抹消するには十分すぎる時間だった。タクシーを降りた佐伯が目にしたのは、錆びたトタン屋根や木造の温もりではなく、無機質なアスファルトに白線が引かれた、どこにでもあるコインパーキングだった。

 かつて彼と香織が肩を寄せ合い、冷たい指先を温め合ったあのアパートの空間は、いまや一台数百円で切り売りされる、ただの「空虚な容積」へと成り下がっていたのだ。


「……何もない。跡形もなく、消えてしまったのか」


 佐伯は、アスファルトの上に立ち尽くした。かつての自室があったと思われる場所には、軽自動車が不気味なほど整然と停まっている。彼はその場に膝をつき、アスファルトの熱を確かめるように掌を当てた。かつての床の軋みも、香織が淹れてくれたココアの匂いも、そこには一欠片も残っていなかった。


 絶望に打ちひしがれた彼は、街のさらに外れ、再開発からも見捨てられたような路地の奥にある、築五十年を超える木造平屋を見つけ出した。そこは、取り壊しを待つだけの、死を待つ老人のような家屋だった。壁は剥がれ落ち、建付けの悪くなった雨戸は、風が吹くたびに断末魔のような悲鳴を上げる。佐伯はそこを借り受け、かつての贅沢な調度品を一切持たず、最低限の寝具と、一台の古ぼけたカセットコンロだけを持ち込んだ。


 初日の夜、佐伯は凍え返るような暗闇の中で、アルミの小鍋に水を張り、火をつけた。

 カセットコンロから放たれる青い炎が、煤けた天井を微かに照らす。パチパチという小さな音と共に湯気が立ち上り、室内の冷えた空気と混ざり合って白く揺らぐ。その光景は、驚くほど記憶の中の『若葉荘』に似ていた。

 彼は、近所のコンビニエンスストアで買った、安っぽいカップ麺に湯を注いだ。三分を待つ間、彼は自分の鼓動が少しずつ速くなるのを感じた。


「これだ。この渇望、この不自由さ……。ここにいれば、俺はまた、あの頃の幸福に触れられる」


 震える手で蓋を開け、麺を啜る。熱い汁が喉を通り、空っぽの胃を内側から温めていく。その瞬間、彼は確かな生命の火花が胸の奥で爆ぜるのを感じた。不足しているからこそ、一滴の水が甘美に感じられる。不自由だからこそ、自由を願う心が光を放つ。

 彼はあえて自分を窮乏の極地に置くことで、停止してしまった「幸福の振り子」を、無理やり揺り動かそうとしたのだ。


 だが、その陶酔は長くは続かなかった。

 一週間が過ぎる頃、佐伯は再び、前回の邸宅にいた時よりも遥かに深い、逃げ場のない真理に突き当たった。


 彼が今、このボロ家で味わっている「不自由」は、本物のそれではないのだ。

 どれほど困窮を装おうとも、彼の銀行口座には、いざとなれば一流ホテルに逃げ込めるだけの余剰がまだ微かに残っている。そして何より、彼にはもう、かつての若葉荘にあった「未来」がない。

 あの頃の生活が輝いていたのは、アパートがボロかったからでも、貧乏だったからでもない。そこから抜け出そうとする、狂おしいほどの「希望」と、隣に座る香織という「共有者」がいたからだ。


 今の彼には、抜け出すべき目的地がない。どれほどボロ屋に身を置こうとも、それは「過去を模倣する孤独な老人の、惨めな独り芝居」に過ぎなかった。

 ショーペンハウアーの言葉が、今度は血を流すような重みで彼にのしかかった。

「幸福は常に未来か過去にある。現在は、いわば雲の切れ間を通り抜ける陽光のようなものだ」


 佐伯は、深夜、寒さに震えながら、雨漏りの跡がある天井を見上げた。

 そのシミの形は、若葉荘のそれとは全く異なっていた。当たり前だ。ここは、あの場所ではない。

 幸福は、やはり「ここ」にはなかった。

 それは記憶というフィルターによって美化された、二度と手に入らない「移行の瞬間」の残像に過ぎなかったのだ。かつての自分が、未来を追うことで「現在」を犠牲にしていたように、今の自分は、過去を追うことで再び「現在」をドブに捨てている。


 佐伯は、ガスコンロの火を静かに止めた。

 一瞬にして、室内を深い闇と静寂が支配する。

 彼は、自らの愚かさを悟った。幸福とは、どこかにある「目的地」や、どこかに置いてきた「宝物」ではない。それは、不足と満足の間を絶え間なく揺れ動き、一瞬だけ網膜に焼き付く光学的現象のようなものなのだ。


 すべてを諦めた、その時だった。

 窓の隙間から、街灯の冷たい光が差し込み、埃が舞う室内を斜めに横切っているのが見えた。

 それは、豪邸のライトアップのような演出でも、若葉荘での期待に満ちた西日でもない。ただ、意味もなく、目的もなく、そこに「在る」だけの光だった。


「幸福なんて、探すから見つからないんだな……」


 佐伯は、独り言を漏らして小さく笑った。

 未来へ投射するのも、過去に執着するのもやめた時、彼は初めて、雲の切れ間から漏れる微かな、しかし残酷なまでに確かな「現在」の冷たさを、ありのままに受け入れた。

 

 翌朝、佐伯はボロ屋の鍵を玄関に残し、外へ出た。

 持っているのは、かつて香織が贈ってくれた、古びた腕時計一つだけ。

 どこへ向かうかは決めていない。ただ、一歩ずつ地面を踏みしめる感触だけが、静かな朝の街に響いていた。


 彼はもう、城もアパートも必要としていなかった。

 ただ流れる時間という無慈悲な川のほとりで、彼は初めて、自分が「空っぽ」であることを許した。

 その「空っぽ」の心に、新しい朝の、名もなき風が吹き抜けていく。

 

 彼は歩き続ける。

 幸福という蜃気楼を追いかけるのをやめた時、佐伯は初めて、この世界に「ただ存在している」という、あまりにも素朴で、孤独な自由を手に入れたのだ。


(完)

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