10:侍、その言葉を知らずに口にする
清一は窓から射し込む陽射しで目を覚ました。一晩経てば浦賀の我が家に戻っているのではないかと期待していたが、そんな都合のいいことは起きず、小さく溜め息を吐いた。
与えられた二階の個室で、〝カウチ〟というらしい寝そべられる広さの座椅子から身を起こす。背中や腰の沈み込みは柔らかく、寝心地は悪くなかったが、やはり慣れ親しんだせんべい布団には敵わない。まだ異世界に来てたったの一日だというのに、自宅を恋しく思った。
しかし、何も悪いことばかりではない。この世界は
夜なのに
中でも清一を驚愕させたのは、この世界の時計、〝クロォク〟だ。
大和の時計は昼と夜で一刻の長さが変わっていたのに対し、こちらではそれが常に一定の間隔で刻まれている。一日という単位が、はっきりと形を持って存在しているのだ。清一はこの世界の技術力の高さを痛感した。
(この世界は俺が元いた世界と一日の長さが変わらない。ということは、あのクロォクは大和でも使えるということになるな)
帰る算段も見つからないまま、ついそんなことを考えてしまう。あれやこれやを澄やお登世が見たらどんな反応をするだろうか。他愛もない妄想をすることが清一の楽しみになっていた。
しかも、――清一の解釈が正しければ――今日から〝キンダーガーデン〟という藩校や私塾のような場所に連れていってもらえるという。これでこの世界の言語が学べると思うと、自然と頬が緩んでしまう。
「ワイゥユアッ キンダーガーデン、ユゥハフトゥリーヴ ユァソード ウィズミィ」
昨夜、ソフィアは清一の打ち刀を指差し、自身の手元に引き寄せるような仕草をしながらこのように告げた。
刀を取り上げる、という意味だと察し、清一は強くかぶりを振った。キンダーガーデンという言葉が入っていたため、一時的なものであることは予想できたが、だとしても到底承服できることではなかった。
刀は武士の魂。さらに、愛刀の『
けれど、ソフィアは食い下がった。
「アゥギヴ ユァソード バック アフタースクーゥズオヴァ。アゥキーピッ オンリィー ワイゥユアッ キンダーガーデン」
架空の刀を返す手振りをし、「ワイゥユアッ キンダーガーデン」と繰り返す。半泣きになっている彼女を見て、清一は考えを改めざるを得なかった。
武士が刀を手離すことなどあってはならないことだが、そこが茶室などの作法を重んじる部屋、または関所や公的な施設となれば話は別である。キンダーガーデンとはそのような場所だと解釈した。それに、キンダーガーデンにはモニカという幼子もいるという。自分が武装していては、子どもたちを不安にさせてしまう。
清一は喉の奥に苦いものが込み上げるのを感じながら、ゆっくりと頷いた。護るべきものを見誤ってはならない。それもまた、武士としての務めである。
ソフィアからの勧告はもう一つあった。
「ユマスノッ タッチ ミス・スミス。――ユドンッ タッチ ミス・スミス」
彼女は〝マスノッ〟と〝ドンッ〟で首を左右に振り、〝タッチ〟でその辺りのものにぺたぺたと触ってみせた。〝マスノッ〟と〝ドンッ〟の違いはともかく、昨日の夕方に会ったミス・スミスという娘に触ってはいけない、という意味だと把握できた。
刀の件とは違い、これは改めて言われるまでもないことだった。
清一は武士としての誇りを持っている。武士にとって婚前の娘に触れることは品位を欠く不道徳な行為なのだ。言葉が通じていれば、手を握ってくるソフィアに対してもとっくに苦言を
かくして、清一はキンダーガーデンに行くこととなった。
朝食には、麦でも米でもない、水のような乳に浮かぶ甘い粒――〝シィリオ〟なるものを恵んでもらい、さらに昼食と水まで渡された。一宿一飯を大幅に超えてしまったのである。ここまで情けを掛けてもらったことはない。これほどの恩をどのようにして返せばいいのか、清一は途方に暮れた。
不意に、プップッ、と外から奇妙な音が聞こえてきた。ソフィアが持ち手の付いた皮の箱を掴んで立ち上がり、手招きをしてくる。
「バイ、マム! アイム ヘディンガウッ!」
「オウケイ、スウィーディー、ハヴァ グレイッデイ! アイラヴュ!」
「ラヴュ トゥー! バイ!」
ソフィアと母親が手を振り合う。清一は彼女の母に一礼し、ソフィアの後を追うように家を出た。
家の前には馬を使わない大きな
「ソフィア」
アリーシャのもとへ駆けていこうとするソフィアを呼び止める。
彼女が足を止めるのを待って、清一は袋から小さな紙の束――〝メモパッド〟と、昨日ソフィアが使ってみせた筆記用具――〝ペン〟を取り出した。いずれも昨夜、ソフィアから与えられたものだった。
清一は視界の端に浮かぶ『
【I】も【you】もソフィアから学んだ言葉だ。唯一知らない【love】の意味さえ掴めれば、このひと言を正確に理解することができる。清一にとってこれは、千載一遇の言語習得の機会だった。
清一は八咫鏡と自分の手元を見比べながら、メモパッドに『love』と記した。
「ソフィア……この意味を教えてくれないか?」
彼女はメモパッドに目を留め、同時にはっと息を呑んだ。胸元に手を当て、潤んだ瞳で見つめてくる。
「リアリィ?」
「〝リアリィ〟――それがこの文字を表す言葉なのか?」
清一の後半の言葉は、彼女の耳に入っていなかった。清一は『love』を伝え、ソフィアは〝リアリィ?〟と
言うまでもないが、清一は自分が何をしでかしてしまったのか、まるで分かっていなかった。
「ユゥトライド ソゥハー トゥリメンバァ ディスワード ジャストゥ テゥミィ、ディゥンチュ? ワッシュダイドゥ……アイム ソゥハァピィ、アイ クックライ」
ソフィアが涙を落とさないように慌てて天を仰ぐ。肩は震え、声も上擦っている。笑顔から泣き顔へと一変した彼女に、清一は盛大にうろたえた。
(【love】は俺が書いてはいけない言葉だったのか! くっ、こういうときはどう声をかけたらいいんだ……落ち着かせる言葉、落ち着かせる言葉……そうだ! 〝オウケイ〟だ!)
「ソフィア、オウケイ。オウケイ」
清一のひと言が効いたのかは分からない。ソフィアは瞳に涙を
「アイム ハァピィ、バッ……アイスィンク イッツァ リロ トゥースーン フラストゥビーィン ラヴ。ハウバゥッ ウィスターッ ウィズァ デイッ ファースト?」
「オウケイ。ソフィア、オウケイ」
「イェァ。イッツァ プロミス、オウケイ?」
「おお、オウケイか。オウケイなんだな?」
清一の失敗は、もはや取り返しのつかない段階まで進んでしまっていた。しかし、一番の問題は彼にその自覚がないことであった。
すっかり上機嫌になったソフィアが、弾むような足取りで車へと駆けていく。その背中からは、花でも咲きそうなほどの幸福感が溢れていた。
(急に元気になったな……まあ、泣かれずに済んでよかった)
自分にとっては何もよくないのだが、彼がそれを知るのはまだまだ先の話……。
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英文開示
ソフィア「While you're at kindergarten, you'll have to leave your sword with me.」
ソフィア「I'll give your sword back after school is over. I'll keep it only while you're at kindergarten.」
ソフィア「You must not touch Ms. Smith. ―You don't touch Ms. Smith.」
ソフィア「Bye, mom! I'm heading out!」
ソフィアの母「Okey, sweetie, have a great day! I love you!」
ソフィア「Love you too! Bye!」
ソフィア「Really?」
ソフィア「You tried so hard to remember this word just to tell me, didn't you? What should I do... I'm so happy, I could cry.」
ソフィア「I'm happy, but... I think it's a little too soon for us to be in love. How about we start with a date first?」
ソフィア「Yeah. It's a promise, okay?」
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