最終話 銀世界の司書、あるいは大葉剛士の昇天

一、凍てつく夜の終着駅

その地方都市に降る雪は、東京のそれよりも重く、静かだった。

公園の片隅、防風林の影の「終の棲家」——破れたブルーシートと、濡れた段ボールの積層。そこへ、無慈悲な白が降り積もっていく。

「寒い……なんて、ありふれた言葉だ」

大葉剛士は、自分の指先の感覚が失われていくのを他人事のように眺めていた。アルミ缶を潰し続けた指。名簿を捲った指。マイクを握りしめた指。そのすべてが、今は紫に変色し、石のように硬直している。

四十七歳か、四十八歳か。もう正確な数字は霧の向こうだ。

俺の人生を彩った、太宰の退廃も、康成の情緒も、三島の烈火も、この絶対零度の静寂の前では、ただのインクの染みに過ぎなかった。

「俺は……何を、間違えたんだろうな……」

父の光雄、母の静江、弟の健二。

中学のヤンキー共。あの活動家たち。そして、あの瞳を輝かせて俺を「賢者」と呼んだ、橘冬哉。

走馬灯というやつだろうか。脳裏を過去の残像がよぎる。だが、それらはどれも冷たく、苦い味がした。

俺は目を閉じた。せめて最後くらい、温かい夢が見たい。

そう願った瞬間、意識の底に広がる「氷河」が、音を立てて溶け始めた。

二、黄金色の静寂、図書室の主

気づくと、俺は光の中にいた。

埃がダンスを踊る、午後の柔らかな日差しが差し込む大きな窓の前。そこは、見渡す限りの本棚が並ぶ、美しい図書館だった。

俺は、糊の効いた真っ白なシャツに、落ち着いた紺色のベストを纏っていた。胸には金色のネームプレート。「司書:大葉剛士」と刻まれている。

手首には、凍傷の痕も、手錠の冷たさもない。指先は滑らかで、紙の感触を慈しむために存在しているようだった。

「あの……お勧めの本を教えてもらえますか?」

ふと顔を上げると、そこには若き日の橘冬哉が立っていた。泥に汚れた家出少年ではない。清潔な制服を着て、未来への期待に目を輝かせた、凛々しい少年だ。

「……冬哉か。お前には、これが必要だろう」

俺は迷いなく本棚から一冊を抜き出した。ヘッセの『車輪の下』だ。

「型に嵌る必要はない。だが、型を知らねば自由の形も分からん。ゆっくり読むがいい」

「ありがとうございます、大葉さん!」

冬哉は深々と頭を下げ、光の中へと消えていった。

次に現れたのは、かつて俺を罵倒した中学時代の不良たちだった。彼らは伏し目がちに、だが敬意を持って俺の前に立った。

「自分たちみたいな奴でも、変われる本はありますか?」

俺は微笑んだ。慈愛に満ちた、かつてなかった種類の笑みで。

「武者小路実篤の『友情』を。言葉は武器ではなく、橋だということが分かるはずだ」

三、救済の言葉、万華鏡の人生

次から次へと、俺の人生に関わった人々がやってくる。

借金取り、警察官、俺を使い捨てた政治家。彼らは皆、何かしらの欠落を抱え、俺の言葉を求めていた。俺は、かつて他責のために使っていた文学の断片を、今は彼らの傷を癒やすための処方箋として手渡していった。

「剛士、立派になったな」

声のした方を向くと、そこには若かりし頃の両親がいた。父の光雄は自慢げに俺の肩を叩き、母の静江は優しく微笑んでいる。

「ああ、父さん。俺は今、ここで人々の道を示しているんだ。氷河期なんて、もうどこにもない。ここは、言葉がすべてを救う場所なんだ」

幸せだった。

空腹もない。屈辱もない。誰かに必要とされ、自分の愛した文学が、世界を肯定するための力として機能している。

四、境界線、そして永劫の夢へ

ふと、遠くで奇妙な音が聞こえた。

「ガタガタ、ガタガタ」という、歯の根が合わない音。そして、顔に当たる、鋭い氷の粒の感触。

……待て、これは……現実か?

図書館の光が、一瞬だけブレる。視界の端に、破れたブルーシートの天井と、降り積もる雪が見えた。

起きないと……。起きないと、死ぬ……!

本能が叫んでいた。今すぐに体を動かし、近くのコンビニまで這ってでも行け。そうでなければ、お前の肉体はただの凍った肉塊になる。

だが、図書館の中の冬哉が、俺の手を握った。

「大葉さん、行かないで。もっと、あなたの話を聞かせてください」

両親が、温かい紅茶を淹れて待っている。

「剛士、今日はもうお休み。お前は十分に戦ったんだから」

天秤は、揺れていた。

惨めで、寒く、孤独で、誰からも愛されない「四十七歳無職」の現実。輝かしく、温かく、知性に満ち、万人に愛される「司書」の夢。

どちらが、本当の俺だ……?

「……俺は、ここに残る」

俺は、自分が愛した文豪たちの声を、その最後の決断の糧にした。

恥の多い生涯を送って来ました。……だからこそ、最後くらい、美しい夢の中で終わってもいいだろう?

俺は深く、さらに深く、図書館のソファに身を沈めた。

外の世界では、雪が大葉剛士の小さなテントを完全に覆い尽くし、ただの白い小山へと変えていた。

だが、その内側で、彼の魂はかつてないほどの熱量を持って、黄金色の書庫を駆け巡っていた。

「さあ、次の本を選ぼうか」

幸せな微笑みを浮かべたまま、大葉剛士の呼吸は止まった。その顔には、かつて一度も浮かんだことのない、穏やかな安堵の色があった。

雪は降り続き、すべてを白く、清らかに塗り潰していった。

彼がずっと、ここではないどこかへ行きたいと願っていた、その「どこか」へと。

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斜陽の男、あるいは多摩川の隠者 @manza79

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