第3話 沈む顔
朝の光が、久礼浜の家々の隙間を薄く染めていた。瀬名浩一は、昨夜の鏡に映った泡立つ自分の顔を思い出しながら、顔を洗った。水道の水は冷たく、塩辛い。村の水道は海水が混じっている時期があると、拓也が言っていたが、今日はそれ以上に濃い。指先が、わずかに震えた。
サエの言葉が頭にこびりついている。「潮に憶えられた」。失踪した若い漁師の姿が、脳裏に焼き付いていた。あの男は、海へ歩いていった。誰も止めなかった。まるで、それが当然のことのように。
瀬名は調査を続ける名目で、浜の奥へ向かった。失踪者の足取りを追う。男は最後に、浜の端にある古い祠の近くで姿を消したという。祠は、干潮時にしか姿を現さないという。今日はちょうど大潮の引き潮。海面が大きく下がり、普段は水没している岩礁が露わになっていた。
足元に貝殻と海藻が絡みつき、歩くたびにぬるりと滑る。瀬名は慎重に進んだ。祠は、黒ずんだ石でできた小さなもの。屋根はなく、ただ四本の柱に囲まれた空間だけ。中央に、粗末な石の台座があり、そこに古い鏡が置かれていた。いや、鏡ではない。海底から削り出されたような、黒く濁ったガラス板。
近づくと、板の表面が微かに揺れた。水が溜まっている。いや、水ではない。まるで液体そのものが生きているように、ゆっくりと波打っている。瀬名はしゃがみ込み、覗き込んだ。
そこに、自分の顔が映っていた。
だが、普通の反射ではない。顔の輪郭が、ゆっくりと溶け始めている。目が、鼻が、口が、潮に浸食されるようにぼやけ、泡立つ。瀬名は息を呑んだ。慌てて顔を上げたが、自分の手で頰を触る。まだ、ちゃんとある。現実の肌は温かいのに、水面の下の顔は、すでに半分以上が崩れかけていた。
「浩一……」
声がした。板の底から。父の声ではない。今度は、自分の声だ。低く、くぐもった、自分の声。
瀬名は後ずさった。足が岩に引っかかり、尻餅をつく。視界が一瞬、水没したように揺れた。まるで自分が海底に沈んでいるかのように、周囲の音が遠くなり、潮の匂いが鼻腔を満たす。耳元で、波の音がする。いや、波ではない。誰かが息をしている音。ゆっくり、深く。
立ち上がろうとした瞬間、視界の端に、何かが浮かんだ。祠の底から、ゆっくりと上がってくるもの。青白い顔。自分の顔に、よく似ている。だが、目は白く濁り、口は裂けたように開いている。泡が、唇の間から絶えず溢れ出している。
瀬名は叫びそうになったが、声が出ない。喉が、塩で詰まったように乾いている。その顔は、水面に浮かび上がり、瀬名の方をじっと見つめた。笑っている。いや、笑おうとしている。口が、ゆっくりと動く。
「浩一……まだ、憶えてる?」
次の瞬間、視界が切り替わった。瀬名は、自分が海底にいるような感覚に襲われた。暗く、冷たい水の中。頭上には、光の筋が揺れている。そこに、村の風景が歪んで映っている。家々、浜、祠。そして、自分が立っている場所。すべてが、水面越しに見える。
記憶が、抜け落ち始めた。
最初は些細なものだった。昨日の夕食に何を食べたか。東京のマンションの部屋番号。父の最後の言葉。次に、もっと大きなもの。幼い頃の記憶。母の顔。母は、瀬名が十歳の時に亡くなっていたはずだ。なのに、顔が思い出せない。ぼんやりと、潮の色だけが浮かぶ。
瀬名は祠から逃げるように離れた。息が荒い。足元がふらつく。浜に戻る道すがら、視界に何度も水面が重なる。歩いているのに、足が水を踏んでいる感覚。砂が、波打ち際のように柔らかく感じる。
村に戻ると、サエが待っていた。社の前で、静かに立っている。
「見たんですね。自分の顔を」
瀬名はうなずくしかなかった。言葉が出ない。
「潮は、まず顔を奪います。顔は、記憶の入り口だから。自分の顔を忘れると、次は名前を。そして、最後に……存在そのものを」
サエは祠の方を指さした。
「あそこは、潮喰神の目。見つめられると、潮に映される。映されたものは、いつか本物と入れ替わる」
瀬名は、自分の頰を触った。まだ、ちゃんとある。だが、指先に、微かなざらつき。塩の結晶が、また増えている。
その夜、瀬名は眠れなかった。窓の外、海鳴りが続く。声は、もう自分のものだけではない。父の声、失踪した漁師の声、そして、知らないたくさんの声が、重なり合って呼んでいる。
「浩一……浩一……」
鏡を見ると、自分の顔が、また泡立っていた。今度は、目が一つ、溶け落ちかけている。
瀬名は、初めて思った。
自分は、まだここにいるのだろうか。
(つづく)
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