Scene66・67:あなたが少しでも楽になったなら

🌙 Scene66(湖のほとり・静かな甘さの時間)


ソフトクリームを食べ終えたあと、

ふたりはそのまま湖のほとりを歩き始めた。


風が水面を撫でる音だけが聞こえる。

人の声はほとんどなく、

午前の光がゆっくりと湖に溶けていく。


景兎先輩は、

少し前を歩くでもなく、

隣にぴたりと寄るでもなく、

有莉澄の歩幅に合わせて静かに歩いていた。


「……さっきの言葉、嬉しかったです。」


自分でも驚くほど素直に声が出た。


先輩は歩みを緩め、

横目でこちらを見る。


「どの言葉ですか。」


「……絵のこと。

“好きですよ”って……

そんなふうに言われたの、初めてで。」


先輩はほんの少しだけ目を細めた。


「本当のことを言っただけですよ。

あなたの絵は……

見ていると、心が静かになるんです。」


その言い方が、

胸の奥にじんわり染みていく。


「……また、描いてみようかなって……

少しだけ思いました。」


言った瞬間、

胸が熱くなる。

まだ確信ではない。

でも、確かに芽生えた気持ち。


景兎先輩は、

その言葉を急かすことも、

喜びを大げさに表すこともせず、

ただ静かに受け止めた。


「……そう思えたなら、

それだけで十分ですよ。」


その声は、

甘さよりも深い温度を持っていた。


ふたりはまた歩き出す。

湖の光が揺れて、

影が寄ったり離れたりする。


しばらくして、

先輩がふと立ち止まった。


「……手、少しだけ。」


その言い方は、

大人の余裕と、

少しの照れが混ざっていた。


有莉澄がそっと手を差し出すと、

先輩は指先だけを軽く絡める。


強く握らない。

でも離れない。


“恋人になったばかりの距離”が

そのまま形になったような手の繋ぎ方。


「……温かいですね。」


「先輩のほうが温かいです。」


ふたりはそのまま、

湖のほとりをゆっくり歩いた。


言葉は少ないのに、

心は驚くほど近かった。


午前の光の中で、

ふたりの影は静かに重なっていった。




🌙 Scene67(帰り道の車内・静かな余韻と深まる距離)


湖の駐車場に戻ると、

午前の光は少し傾き始めていて、

水面に映る光がゆっくりと揺れていた。


車のドアを閉めると、

外の風の音がふっと遠ざかり、

代わりに車内の静けさが戻ってくる。


シートベルトの金具が小さく鳴り、

エンジンが静かにかかる。

その振動が足元から伝わってきて、

さっきまでの会話の余韻を揺らすようだった。


車がゆっくりと道路へ戻ると、

窓の外には、

さっきふたりで歩いた湖畔の道が

ゆっくりと後ろへ流れていく。


有莉澄は、

その景色をぼんやりと眺めながら、

胸の奥に残る温かさを確かめていた。


景兎先輩の言葉。

「僕も同じだったよ。」

「不安にならないでください。」

「あなたの絵、好きですよ。」


どれも優しくて、

どれも静かで、

どれも胸の奥に深く残っている。


ふたりの間には沈黙があった。

でもその沈黙は、

気まずさではなく、

“安心して黙っていられる沈黙”だった。


景兎先輩が、

前を見たままふっと息を吐く。


「……今日は、来てくれてありがとうございました。」


その声は、

デートの礼というより、

“あなたが少しでも楽になったなら”という

深い安堵の温度を含んでいた。


「こちらこそ……

すごく、楽しかったです。」


言葉にすると、

胸の奥がじんわりと熱くなる。

本当に楽しかった。

景兎先輩といる時間は、

静かで、優しくて、

自分の心が少しずつ軽くなるのを感じた。


先輩はほんの少しだけ目を細める。


「あなたが笑っていると、

僕も安心します。」


その言い方が、

甘さと深い温度を持って胸に落ちる。


信号で車が止まったとき、

先輩がふとこちらを見る。


「……また行きましょう。

無理のない日に。」


“無理のない日に”

その言葉が、

有莉澄の心をそっと包んだ。


急かさない。

期待を押しつけない。

ただ隣にいてくれる。


「はい。」


それだけで十分だった。


車はゆっくりと街へ戻っていく。

午後の光がフロントガラスに反射して、

車内を柔らかく照らす。


ふたりの影が、

ゆっくりと重なったり離れたりしながら、

静かに揺れていた。


その揺れが、

恋人になったばかりのふたりの距離を

象徴しているように思えた。


言葉は少ないのに、

心は驚くほど近かった。



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