第34話 近づく人
二〇一五年八月十九日 午前十時十分 軽井沢・御用邸外縁
象徴に触れるのに、銃はいらない。
人が一人、近づけばいい。写真でも、声でも、血でも——「近づいた」という事実だけで空気は変わる。
御用邸外縁の道路に、白いワゴンが止まった。
側面に「報道」と貼ってある。貼ってあるから報道ではない。
本物の報道は、貼らなくても通る。
運転席から降りた男が、警備線の制服警官に深々と頭を下げた。
「宮内省の許可を頂いております。臨時の取材で——」
差し出された紙は、よくできている。
押印もある。紙質もそれらしい。だが呼吸が違う。紙が息をしていない。
昨日から続く偽通行証の匂いが、薄く残っていた。
警備線の内側、私服の内務班が散歩の顔で並行する。
湯川警視正の声が、無線で短く落ちた。
『触るな。通すな。捕まえるな。——帰せ』
三つ並べた命令は、一つでも欠けると絵になる。
絵になれば、統一戦線の勝ちだ。
内務の現場責任者が、制服の肩越しに男へ言った。
「申し訳ありません。本日は落雷による回線障害で、関係者以外の通行を止めています」
男は一瞬、眉を動かす。
嘘の準備をしてきた者ほど、別の嘘に弱い。
「……ですが、こちらは宮内省の——」
「宮内省でも止めています」
制服が同じ調子で返す。
感情を乗せない。怒らない。押し返さない。
ただの不便として返す。政治ではなく、設備の都合として返す。
男は笑顔を作り直した。
「では、せめてこちらを——御用邸にお届けを」
ワゴンの荷台を指す。白い紙袋がいくつも積まれている。
贈答品に見える。贈答品ほど危ない。
湯川の声が落ちる。
『贈り物は触るな。触れば“宮内が受け取った”になる』
内務の責任者が一歩も近づかずに言った。
「受領はできません。返送してください。返送先は——」
男が言葉を遮った。
「返送先は、ここです」
男の指が紙袋の一つを叩いた。
叩き方が軽い。軽いが、確信がある。
中身が効くと知っている叩き方だ。
その瞬間、ワゴンの後部座席からもう一人が降りた。
若い女。カメラバッグ。首から報道腕章。
そして、笑い方が上手い。上手い笑いは訓練だ。
女が制服へ言う。
「すみません、映像だけでも。遠景だけでいいので——」
映像。
遠景。
遠景は偶然の切り取りを装える。
偶然の切り取りは、象徴に触れたように見せるのに最適だ。
内務の私服班が、女の視線の先を見た。
遠景の位置取りが、やけに正確だ。
御用邸の門ではない。警備動線の折れの部分。
そこなら人影が混ざる。混ざれば誤認が作れる。
湯川が小さく息を吐いた。
『……近づく人、だな』
その時だった。道路脇で「バン」と乾いた音。
タイヤが破裂したような音。
ワゴンの前輪が沈み、車体が傾く。男が大げさに叫んだ。
「危ない! ——誰か! 助けてください!」
助けてください。
この一言は、警備側に近づかせるための鍵だ。
助けた瞬間、接触が成立する。接触が成立した瞬間、象徴が汚れる。
内務の責任者は動かなかった。
代わりに、道路工事の作業員に見える男が一人、ワゴンへ向かう。
作業員は内務でも兵部でもない。民間警備会社の契約員だ。
象徴の前に出るのは、国家の制服ではなく民間の顔。絵を殺すための顔。
契約員が言った。
「動かないでください。二次事故になります。こちらでコーン出します」
男が焦る。
「いや、急いでるんだ! 宮内省の——」
契約員が淡々と返す。
「急いでも動かないです。パンクですから」
日常の言葉で、事件を日常に押し戻す。
その間に、内務の私服が道路の反対側へ回り込む。
ワゴンの下に落ちている小さな金属片を見つけた。
釘ではない。釘なら粗い。
これは——電磁式の破裂装置。小型。専門の仕事。
湯川が無線で告げる。
『仕掛けだ。——捕まえるな。逃げ道だけ塞げ』
逃げ道を塞ぐ。追わない。追えば映像になる。
だから、追わずに消えるしかない状況を作る。
内務の私服が、何でもない顔で道路の先に車を寄せた。
工事車両のふり。ハザード。三角表示。
ワゴンは前にも後ろにも動けない。
動けないのに、誰も怒鳴らない。怒鳴らないほど相手は焦る。
女がスマホを構えた。
映像が始まる。始まった瞬間、台本が動く。
「政府が取材を妨害しています! これが検閲です!」
——言った。やはり言う。
検閲。弾圧。隠蔽。
昨日のチラシと同じ言葉。言葉は運ばれている。
湯川が短く命じた。
『電波を殺せ。——回線障害を本物にしろ』
兵部側の電波班——合同参謀本部から来た海軍大佐・神谷が、無線で淡々と答える。
『了解。周辺の民間帯域、微弱妨害。局所。短時間で切る』
妨害は危険だ。だが局所で短時間なら通信環境の不具合に落とせる。
象徴を守るための、現実的な汚れ方だった。
女の配信画面が固まる。
固まった瞬間、女の笑顔が消える。役者の素が出る。
「……っ」
男が女へ目配せした。
撤収の合図だ。
そして紙袋の一つを、道路脇の植え込みへそっと置く。
置いて去れば、後で誰かが拾う。拾った誰かが騒ぐ。騒げば絵になる。
契約員が、同じくらいそっと言った。
「落とし物です」
男が振り返った。
拾われた——という事実は、置いていけない。
男が紙袋へ手を伸ばした瞬間、内務の私服が一歩だけ近づき、しかし触れずに告げる。
「忘れ物はあなたが持って帰ってください。こちらは受け取れません」
受け取らない。
受け取らなければ、象徴に触れない。
受け取らなければ、相手の筋書きが成立しない。
男は紙袋を掴み、ワゴンへ戻った。
戻った瞬間、道路の先の工事車両が少しだけ動いて道を空ける。
塞いでいた道が開く。——帰れという合図だ。
ワゴンはスペアタイヤも出さずに、ぎこちなく走り去った。
後ろ姿が小さくなるまで、誰も追わない。追うと絵になるからだ。
神谷大佐が、湯川へ低く言った。
「……近づけなかった。だが、これは試しだ。次は——」
湯川が答える。
「次は、事故じゃない。人だ。
事故は避けられるが、人は守りにくい」
二〇一五年八月十九日 午後一時三〇分 那覇・県庁前(再び)
官報の無効は届いていた。
だが届いたのは紙だけで、空気は届いていない。
「官報は偽物だ!」
「四鍵は帝都の密約だ!」
昨日と同じ言葉が、今日も回る。
そして今日、言葉の中心に新しい燃料が混ざった。
「軽井沢で取材妨害があったらしい」
「象徴が隠された」
「会ってる、会ってない、どっちだ」
触れたではなく、触れられたかもしれない。
この曖昧さが、最も厄介だ。
確信がない人間ほど、噂にしがみつく。
歌川正輝は遠巻きに群衆を見て、低く呟いた。
「……軽井沢を燃やす前に、那覇を燃やす」
海軍士官が頷いた。
「象徴に触れられないなら、象徴を盾にする空気を作る。 盾ができれば、次は——刀だ」
刀。
つまり血。
血はまだ出ていない。だが、今日の空気は昨日より硬い。
歌川は、群衆の中の押す手を探した。
押す手は一人ではない。
一人を抜いても、次が現れる。
だが、押す手が増えた時ほど、組織は急いでいる。
(N9が焦ってる。象徴に触れなかったからだ)
二〇一五年八月十九日 午後六時四五分 東京・市ヶ谷(封鎖線内)
そして帝都では、別の火がくすぶっていた。
皇衛派は銃で世界を取り戻すつもりだった。
統一戦線は紙と噂で国を割るつもりだった。
同じ混乱の中にいれば、遅かれ早かれ衝突する。
市ヶ谷の薄暗い廊下で、憲兵が憲兵を止める声が響いた。
「止まれ。所属を言え」
返答が遅い。遅い返答は偽物だ。
「……市ヶ谷屯地、憲兵——」
「憲兵隊区の符号は」
沈黙。
沈黙は、答えを用意していない沈黙。
次の瞬間、銃声。
皇衛派の兵が撃ったのではない。
“偽物の憲兵”が撃った。
撃って、逃げ道を作り、混乱を増やす。統一戦線の動きだ。
廊下が戦場に変わる。
皇衛派の誰かが叫ぶ。
「……あいつら、味方じゃない!」
ようやく皇衛派が気づく。
しかし気づいた時には、もう遅い。
——三つ巴は、表に出始めていた。
軽井沢で近づく人を追い払っても、断片は残る。
那覇で血を止めても、空気は硬い。
市ヶ谷で偽物を撃っても、帝都の火は消えない。
象徴に触れる手は、もう一度伸びる。
次は「事故」ではない。
次は「人の顔」で、象徴を汚しに来る。
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