第三章:境界の黄昏
第一話
一八:〇〇。
世界から色彩を剥ぎ取った峻厳な光は退き、プラチナ・アークの回廊には、膿のような残照が這い寄り始めていた。
白銀の秩序が最も危うくなる時刻。昼と夜の継ぎ目に生じる論理の空白へ、外界の汚濁が爪を差し込もうと疼き出す時間帯である。
私はリビングの長椅子に深く身を沈め、網膜に映し出される一日の清掃ログを反芻していた。
正午に消去した不純なピクセル――アキラと呼ばれた個体は、今頃地下の「還り路」で、高潔な熱エネルギーへと本質を組み替えられているはずだ。
「リツさん。思考の波形が、僅かに感傷的な揺らぎを見せています」
ヒナタさんの声が、微かな空調の風に乗って右耳の後ろに結像する。
夕闇のなかで彼女の気配はいっそう透徹さを増し、実体を持たぬがゆえの完璧な美しさを、私の脳裏に描かせた。
「ええ、ヒナタさん。この時刻の空の不確かな混濁が不快なのです。早く夜という名の絶対的な暗黒が、この中途半端な階調を塗り潰してくれればいい」
「ご安心を。室内照明の色温度は、シンイチロウさんの心拍に従い、既に夜の安定へ移行を開始しています。不純な光は、ここには届きません」
そのとき、廊下の向こうから静謐を切り裂く音が聞こえた。
何かが硬い床を擦る、不規則で野蛮な響き。
ユイさんが夕食のテーブルへ向かう足音だった。
彼女は静養室での再調整を終えたはずだが、その歩法には矯正しきれない「重力への執着」が残っている。シンイチロウさんの私室から溢れ出す無機質な冷気すら、彼女が纏う異様な熱を冷ますことはできないようだった。
「リツさん……。シンイチロウさん……」
ダイニングに現れたユイさんの声は、凍りついた硝子に熱湯をかけたような危ういひび割れを伴っていた。
彼女は教え込まれた通り平行視線を守ろうとしている。だが焦点は定まらず、虚空を彷徨い続けている。
「ユイさん。一八:〇〇の点呼に三秒の遅延があります」
影のように食卓の主座へ現れたのはシンイチロウさんだった。
スマートグラス――水晶の瞳――は夕闇のなかでより深いエメラルド色に沈み、統治者としての冷徹な輝きを放っている。
「それは、あなたの存在の精度が低下している証拠ですよ」
「申し訳ありません……。ただ、少しだけ。窓の外から、焦げた匂いがしたような気がして……」
「匂い?」
シンイチロウさんの断定は、反論を許さぬ絶対零度の法だった。
「この家は三重のエアフィルタによって、外界の分子レベルでの侵入を遮断しています。あなたが感知したものは、知性のバグが視覚化した幻覚に過ぎません」
――しかし、その瞬間。
私の鼻腔にも、それは届いた。
地下の焼却炉から立ち昇る聖なる灰の匂いとは違う。もっと生々しく、鼻を突く、有機物が不完全に燃え盛る腐臭。
「リツさん。心拍数が上昇しました」
ヒナタさんの声がすぐに重なる。
「環境制御の出力を上げます。リツさんの周囲に、清浄なオゾンを直接産生します」
囁きとともに、鼻腔を冷たい感覚が貫いた。腐臭は一瞬でかき消え、意識は無菌の平穏へ引き戻される。
だが、ユイさんは違った。
喉元を掻きむしるようにしながら、震える声で続ける。
「いいえ……これは幻覚じゃない。誰かが泣いている匂いだわ。整理された人たちの、消された記憶が、煙になって空を汚している……」
彼女の言葉は、さらに深い場所へ触れようとしていた。
「シンイチロウさん、リツさん。私たちは、何を食べているの? 私たちが供物と呼んでいる白い塊は、本当は――」
「ユイさん。その先は非論理的な領域です」
ヒナタさんは冷たく、そして慈愛を込めて遮った。
「供物とは記憶の継承です。役割を終えたユニットが、新たなユニットの動力へ変換される工程です」
言葉を磨き、正義の形に整える。
「あなたが懐かしむ不安定な熱量より、この白い供物の滑らかな舌触りのほうが、遥かに高貴な真実ではありませんか」
そのとき磁気浮上搬送路が静かに唸り、夕食が運ばれてきた。
純白の磁器の上に鎮座する、一切の繊維質も色彩も失った完璧な栄養体。肉や野菜と呼ばれたものの面影はない。ただ正義という名の美学によって精製された究極の形代だった。
「さあ、夕食を始めましょう」
シンイチロウさんの声は柔らかさを持たない。
「ユイさん、咀嚼音はノイズです。自らの存在を静寂に溶かし込むようにして摂取しなさい」
合図とともに、私たちは一斉にスプーンを動かした。
カチリ、と磁器が触れ合う音だけが、境界の黄昏に響く。
窓の外では夜の帷が降り、外界の醜悪な輪郭が闇に呑み込まれていく。
だが、その暗がりの縁で、私は一瞬だけ異質な挙動を捉えた。
白銀の外壁をかすめ、演算に収まりきらない微細な赤黒の粒子が、上昇流に乗って散っていく。
「……リツさん。血圧がさらに不安定です。私の声を、もっと深くへ入れてください」
ヒナタさんの手が肩に置かれたような錯覚。
私は目を閉じ、冷たい供物を口に運んだ。
舌の上で崩れるそれは、どこか鉄のような、塩分を含んだ不純の味がした。
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