マイナス20°度の世界
翠
第1話「凍った密室」
吹雪は、音を奪う。
街灯の光さえ、白い粒に噛み砕かれて、鈍い灰色へと沈んでいく。
高崎透は、雪の壁の中を歩きながら、視界の端で揺れるものを見た。
ビニール袋――ではない。
風にあおられて、どこかの部屋から飛ばされてきた薄いカーテンだ。
“室内の布”が外で踊っている。それだけで、この街では胸がざわつく。
「なあ、透」
隣を歩く増田蓮が、口元のマフラーを押さえた。
声が凍って、すぐに崩れそうだった。
「この感じ……嫌な予感しかしない」
透は頷かない。
ただ、前を見る。
「嫌な予感は当たる。
この街では」
二人が向かうのは、四階建ての古い集合住宅。
表札の文字が削れ、郵便受けには氷が詰まり、階段は白い結晶に覆われている。
住民はすでに避難済み。
吹雪がひどく、救急も警察も動けない。
それでも、探偵だけは呼ばれる。
――なぜなら。
事件は、寒さに負けないから。
玄関の扉を押し開けた瞬間、蓮が小さく呻いた。
「……うわ」
廊下が、屋外と同じ温度だった。
いや、屋外より冷たい。
空気が重い。肺が拒絶する。
透の視線が、廊下の奥へ走る。
一室のドアの前だけ、霜の付き方が違う。
“冷気が漏れている”。
「ここだ」
ドアノブに触れた蓮が、反射的に手を引っ込めた。
「金属が……皮膚にくっつくぞ」
「手袋を二重に」
透は淡々と言い、ドアを開けた。
空気が、刃になって飛び出した。
部屋の中は、凍っていた。
家具も、床も、壁の隅々も。
冷蔵庫のように白い霜が広がり、窓ガラスは厚い氷で覆われている。
そして、部屋の中央。
人が――立っていた。
「……え」
蓮の喉から、息が漏れる。
それは“立っている”ように見えるだけだった。
男が、直立したまま凍結している。
氷の中に閉じ込められ、眼球まで白く濁って、まつ毛に霜が咲いている。
顔は、不思議なほど穏やかだった。
恐怖も苦痛もない。
それが、いちばん怖い。
「凍死……?」
蓮が言うと、透は首を振った。
「凍死の顔じゃない」
透は、遺体の足元にしゃがんだ。
床に、薄い氷の膜。
その膜の下に――
「血痕だ」
「え?」
「凍って見えないだけ。
この人は、死んでから凍らされた」
蓮の背中が冷えた。
寒さとは別の、内側からくる冷えだ。
「なんで分かるんだ」
透は遺体の手首を見た。
氷の中の皮膚に、わずかな裂け目。
「出血の広がりが不自然。
循環してない。
それに……」
透は、部屋を一周見渡す。
窓:内側から凍っている
鍵:内側
チェーン:かかっている
換気扇:停止
暖房:電源が入っていないのに、配線は生きている
ブレーカー:落ちていない
「密室だ。
でも密室は“作れる”」
蓮は、遺体のすぐそばで空気が“鳴っている”ことに気づいた。
微細な氷の粒が、室内を漂っている。
冷気が、生き物みたいに。
そのとき。
――コツ。
廊下のほうから、音。
蓮は反射で振り向く。
廊下には誰もいない。
けれど床に、新しい霜の足跡がある。
さっきまで無かった足跡が、ゆっくり増えていくみたいに、淡い白が伸びていく。
「……透」
蓮の声が、乾いた。
透は廊下へは行かず、遺体の胸元を指した。
スーツの襟。
そこに、凍りついた小さな紙片が挟まっている。
透はピンセットで引き抜く。
紙は湿っていない。
インクも滲んでいない。
ただ、凍っている。
短い文字。
『ごめんね』
蓮が息を止めた。
「遺書……? いや、これだけ?」
透は紙片を光にかざし、角度を変える。
紙の裏に、爪で削ったような凹凸がある。
印字ではない。
力任せに刻んだ跡。
透が読み上げた。
「『あけるな』」
「……は?」
蓮の視線が遺体に戻る。
凍った男の目は閉じていない。
開いたままだ。
白濁した眼球が、こちらを見ている――ように錯覚する。
蓮は、自分の心臓の音がうるさくて、吐きそうになった。
「開けるなって……この部屋を?
じゃあなんで鍵を内側から……」
透は、遺体の足元の床を指先で軽く叩いた。
コン、コン。
乾いた音。
だが一部だけ、音が違う。
「床下だ」
透が床板の端を工具でこじ開けると、冷気がさらに噴き出した。
そこには、小型の金属箱。
配線が伸び、壁のコンセントへ繋がっている。
蓮の顔色が変わった。
「……冷凍装置?」
「簡易の低温発生器だな。
医療用か、研究用か。
個人で持つには不自然」
透は配線を辿る。
コンセントは生きている。
けれど、部屋の電気は点かない。
電源はどこかで分けられている。
「この部屋だけ、冷凍庫にした」
「誰が?」
透は答えない。
代わりに、遺体の耳元にしゃがむ。
氷に閉じ込められた耳。
そこに、薄い黒い粒が付着している。
透が指先で取って匂いを嗅いだ。
「……灯油」
蓮が顔をしかめる。
「暖房じゃなくて、灯油? なんで」
透は、窓に目を向けた。
厚い氷の内側に、さらに薄い膜がある。
二重の凍結。
「外から冷やしたんじゃない。
中で温度を落とした上で、さらに外気で固めた。
吹雪の日を選んで」
蓮の喉が鳴った。
「……計画的ってことか」
透は、遺体のポケットを調べた。
鍵束。
財布。
免許証。
名前は――相沢 恒一。
「相沢は誰かに呼び出された。
もしくは、招き入れた」
「犯人はどうやって出た?
鍵もチェーンも内側だぞ」
透は、遺体の腕を見た。
氷に閉じ込められているが、手首の角度が不自然だ。
何かを握っていた跡。
透が床に落ちている小さな金属片を拾う。
「釣り糸の留め具……いや、ワイヤー」
「え?」
「チェーンを外すのに使える。
内側から外したように見せて、外側で操作する」
蓮が言いかけた。
「じゃあ、外側から引っ張って――」
透は途中で遮った。
「それだと、チェーンの金具に摩擦痕が残る。
……でも残ってない」
「え、じゃあ」
透はゆっくり立ち上がり、廊下へ視線を送った。
霜の足跡は、今も薄く、増えている。
“誰かが歩いている”のではない。
冷気が移動している。
透の声が、さらに低くなる。
「犯人は、ここに“いなかった”」
「……は?」
「相沢は、自分でチェーンをかけた。
鍵も閉めた。
その上で――死んだ」
蓮の唇が震える。
「自殺……?」
透は首を振った。
「自殺に見せたい他殺でもない。
これは……」
透は、氷の中の相沢の顔を見上げる。
「“共犯”だ」
「共犯……?」
「相沢は、誰かを守るために、ここで凍った。
そしてその誰かは、相沢が死ぬことを望んでいない」
蓮の背筋を、さらに冷たいものが這った。
「望んでないのに……殺したのか?」
透は短く言う。
「殺してから冷凍する。
そういうやつが、この街にいる」
蓮が一歩後ずさる。
足元が滑って、壁に肩をぶつけた。
氷がきしむ。
――コツ。
廊下。
今度は確かに、足音だった。
ゆっくり。
確信を持った歩幅。
透は、蓮の肩を掴んで止める。
「逃げるな。見ろ」
廊下の奥、非常階段の影。
そこに、黒い影がひとつ。
人の形に見える。
だが、顔が見えない。
影のまわりの空気だけが白く濁り、霜が舞う。
蓮の喉から、声にならない音が漏れた。
影は、ゆっくり指を上げる。
“シー”という仕草。
そして、影の足元から霜が伸び、
廊下の床に文字が浮かび上がった。
凍る床に刻まれる、たった一行。
『次は、君たち』
その瞬間、非常階段の扉が風に煽られて閉まった。
バン、と鈍い音。
吹雪の唸りが戻り、影は霧のように消えた。
蓮は震える声で言った。
「……今の、誰だよ」
透は落ち着き払っている。
だが、目だけが鋭い。
「“黒幕”の挨拶だ」
透は、氷の中の相沢に視線を戻し、静かに言った。
「相沢は、鍵を閉めたんじゃない。
――“蓋”を閉めた」
「蓋……?」
「冷凍庫の、蓋だ」
蓮の胃がひっくり返る感覚がした。
この街は、冷たいだけじゃない。
冷たさを、利用している。
透は紙片をポケットに入れた。
『ごめんね』
『あけるな』
その二つの言葉の間にあるのは、
優しさじゃない。
――絶望だ。
吹雪が、二人の背中を押した。
街は今日も、マイナス20度。
そして事件は、凍らない。
(第1話・了)
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