第43話 静かな余白
官邸の会議室。
長い楕円形のテーブルの上には、
修正の入った条約案が静かに並んでいた。
先ほどまで激しい応酬が続いていたとは思えないほど、
室内の空気は落ち着いている。
だがその静けさは、
問題が解決したからではなく、
一つの峠を越えただけだという感覚から生まれていた。
総理が、ゆっくりと椅子にもたれた。
「……第九条は、これでいこう」
外務大臣が頷く。
「はい。
“緊急協議”と“共同措置”――
この表現なら、各国とも持ち帰れるはずです」
防衛大臣も、小さく息を吐いた。
「軍事同盟ではない。
だが、いざという時の枠組みはある。
ぎりぎりの線だな」
ハンセンは腕を組んだまま、資料を見つめていた。
「曖昧だが、使える条文だ」
その言葉に、総理が目を上げる。
「不満ですか」
「いや」
ハンセンは首を振った。
「これは“軍事条約”ではない。
だが、“止まらない都市”を守る枠組みにはなっている」
短い沈黙。
「我々の本国も、飲めるだろう」
総理は、静かに頷いた。
会議が一段落し、
各国の代表が別室へ散っていった。
残ったのは、
蓮心、武田、小松、そして総理だけだった。
大きな窓の外には、
夕暮れの東京が広がっている。
ビルの隙間に、橙色の光が沈みかけていた。
総理が、低く言う。
「……ここまで来たな」
誰も答えなかった。
その言葉の重さを、
全員が理解していたからだ。
小松が、ようやく口を開いた。
「条約の骨格は、ほぼ固まりました。
あとは細部の詰めです」
「油断はできませんね」
武田が言う。
「国内の世論も、まだ割れています」
総理が、苦笑した。
「当然だろう。
国家の形を変える条約だからな」
蓮心は、静かに頷いた。
「ええ。
むしろ、静かな方が怖いと思います」
総理が、少しだけ眉を上げる。
「どういう意味だ」
「誰も声を上げない国は、
もう何も期待していない国です」
小松が、腕を組んだまま言った。
「確かに……。
役所にいて一番怖いのは、
抗議の電話が来なくなる時ですね」
武田が、少し驚いた顔をする。
「それは、どういうことですか」
「期待があるうちは、
人は文句を言うんです。
“何とかしてくれ”って」
小松は、静かに続けた。
「でも、本当に諦めたら――
何も言わなくなる」
短い沈黙。
総理が、低く言った。
「平成の後半は、
まさにそんな空気だったな」
誰も否定しなかった。
蓮心が、ゆっくりと口を開く。
「ですが今は、
少し違う空気を感じます」
武田が顔を上げる。
「違う?」
「ええ。
街でも、寺でも、
若い人が政治の話をするようになりました」
小松が、意外そうに言う。
「寺で、ですか?」
「はい。
葬儀のあとや、法要の帰りに、
世の中の話になることがあります」
蓮心は、穏やかに続けた。
「昔は、景気の話ばかりでした。
“給料が上がらない”
“仕事がない”と」
総理が、静かに頷く。
「それが今は?」
「“この国はどうなるんだろう”と、
そういう話に変わってきています」
武田の表情が、少し柔らいだ。
「……それは、いい変化ですね」
「ええ。
少なくとも、
無関心ではなくなった」
蓮心は、静かに言った。
「国のことを考える人が増えたなら、
意見が割れるのは当然です」
総理が、腕を組んだまま言う。
「国をどうするか、
本気で考え始めたということか」
「はい」
短く、しかしはっきりとした声だった。
「だから、この分断は
壊れる前兆ではなく、
目覚める前兆だと思います」
小さな沈黙が流れる。
武田が、ゆっくりと頷いた。
「……目覚める前兆、ですか」
その言葉を、
まるで自分に言い聞かせるように繰り返した。
総理は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく笑った。
「僧侶とは思えない国家論だな」
蓮心も、わずかに笑った。
「寺の中にいると、
人の一生と国の流れは、
意外と似ていると分かるんです」
しばらく沈黙が続いた。
窓の外は、すっかり暗くなっていた。
武田が、ぽつりと言う。
「……父には、まだ何も話していないんです」
三人の視線が、彼女に向く。
「今回のことも、
きっとニュースでしか知らないはずです」
少しだけ笑う。
「帰ったら、叱られそうですね。
“また無茶をしたな”って」
その笑顔は、
知事ではなく、一人の娘のものだった。
蓮心は、静かに言った。
「きっと、誇りに思っておられますよ」
武田は、ゆっくり首を振る。
「どうでしょうね。
あの人、そういうこと言わない人ですから」
小さな沈黙。
「でも……」
武田は、窓の外を見た。
「ちゃんと話したいですね。
全部終わったら」
蓮心は、何も言わずに頷いた。
総理が、ゆっくりと立ち上がる。
「今日は、ここまでにしよう」
三人も立ち上がった。
「条約は、もうすぐ形になる。
だが、ここからが本当の始まりだ」
総理は、蓮心を見た。
「覚悟はいいな」
蓮心は、静かに頭を下げた。
「はい」
武田も、小さく頷く。
小松は、ペンをポケットにしまった。
官邸の廊下に出ると、
夜の静けさが広がっていた。
国家の運命を決める会議の直後とは思えないほど、
ただ静かな夜だった。
武田が、小さく呟く。
「……長い一日でしたね」
「ええ」
蓮心が答える。
「でも、まだ終わっていません」
武田は、少しだけ笑った。
「ですね。
終わるまで、帰れません」
四人は、ゆっくりと廊下を歩き出した。
その先に待つのは、
条約の署名か、
あるいは新しい嵐か。
まだ、誰にも分からなかった。
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