木槿国の物語・市場の店にて

高麗楼*鶏林書笈

第1話

・滴る

 色付いた木々を眺めながら、画員の妻が

「すっかり秋めいてきたわね、滴る汗を拭いながら絵筆を動かしていたのが嘘みたい」

と言うと

「今年の夏は異常に暑かったからな」

と画員が応えた。

「あの頃は本当に秋になるのかしらと思っていたけど」

「季節は違うことなく移り変わるんだな」

「そうね」


・瞼

 画員が茶菓子を持って妻の部屋に入ると、机の前で妻が固まっていた。

 画員が大急ぎで近寄ってみると瞼が閉じていた。

「器用なやつだな、筆を持ったまま眠っている」

 画員は侍女を呼んで布団を敷かせると、妻を抱き上げてその上に寝かせた。

「このところ忙しかったからな」

 彼はこう呟きながら部屋を出た。


・微光

 微光を感じて画員の妻は目を覚まし窓を見る。夕日が差し込んでいた。

「いつの間に寝たんだろう」

「起きたか、お前、筆を持ったまま眠ったんだぜ」

 部屋に入って来た画員が言った。

「そうだった。絵の続きを書かなくては」

 妻が起き上がるとすると画員は

「その前に茶でも飲みな」

と茶菓を進めるのだった。


・没入

 お茶を持って来た侍女が妻の部屋の前に立つのをみた画員は

「奥方は今、仕事に没入中だ」

と言いながら茶菓子ののった盆を渡させた。

 盆を手にした画員は戸をそっと引いた。妻は一心不乱に絵を描いている。

 画員はそっと床に盆を置いて去っていった。

「夫人、御主人が来てたよ」

 妻の耳元で妖かしが言った。


・神秘

「それ、この間の山歩きした時のものか?」

 画員が絵筆を動かす妻の背後から声を掛ける。

「うん、あまりに神秘的な風景なので忘れられなくて」

「ああ、本当に仙人が暮らすような山並みだったな」

「世間には私たちの知らない素敵な風景がまだたくさんあるんでしょうね」

「たぶんな、また訪ねてみよう」


・手放す

「いつもの簪、どうしたんだい」

 妻が愛用している簪を挿していないのを見た画員が聞いた。

「親戚の子が欲しがっていたので、手放すことにしたの」

「あれ、気に入っていたんじゃないか」

「うん、でも今は、こっちの方が好きよ」

 妻は頭上の簪を示す。それは、画員が妻の誕生日に贈ったものだった。


・ふわふわ

 庭に出た画員の妻は、目の前に小さな綿毛のようなものがふわふわと飛んできた。

「今時、タンポポの種が風に乗って来たのかしら」

 目を凝らしてみると、それは妖かしたちだった。

「また新しいのが来たのね」

 妻が溜め息をついたが、妖たちはそのままだった。

「タンポポの種なら何処かへ飛んで行くのにね」


・多幸感

「今の生活、多幸感に満ち溢れてるんじゃない」

 実家に来た画員の妻に母親が言うと

「確かに」

と答えた。

「嫌いな家事はしなくていいし、好きな絵だけを描いていればいいのだから」

 その時、画員の迎えに来た声がした。

「多幸感の源泉が来たわ」

 妻が笑顔で言うと母親はこの結婚は成功だったと思うのだった。


・慕わしい

 書堂の帰り、いつも立ち寄るのは、とある御屋敷の壁の隙間。彼はそこから中を覗く。

 今日も彼女は絵を描いていた。この子の姿を確かめるのが彼の日課の一つになっていた。〝慕わしい〟という思いを感じたのが、この時が初めてだった。

 大人になった彼女は、目の前で相変わらず絵を描いているのだった。

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