第16話ㅤ看板の灯り

夜十一時を過ぎると、三階のモニターはほとんど落ちていた。


建物の奥で、空調と設備の低い音だけが続いている。


窓の外のビルの灯りが、ガラスに淡く映っていた。


相沢は窓際に立っていた。


手はポケットの中。


何もしていないのに、体だけがまだ少し仕事場に残っている気がした。


高澤は机の上に残った資料を揃えている。


数字は見ない。


閉じるだけ。


その動きがいつも通りで、少しだけ腹が立つくらい安心した。


しばらく、何も言わなかった。


相沢が、ぽつりと落とす。


「壊れてないな」


高澤は資料を揃え終え、顔を上げる。


「壊さなかった」


短い返事だった。


その言い方で、ずっと続いていた時間のことが済んだ気がした。


相沢は窓から離れ、入口側の壁を見た。


三階へ入ってすぐの場所に、黒地に銀文字のプレートが掛かっている。


『Atrium Laboratory』


その下に、『Aurora総合開発本部 統括フロア』。


新しい名前は、もうこの建物に馴染み始めていた。


広くなった。


深くなった。


人も、責任も、使える枠も、前よりずっと増えた。


その新しい表示の横に、小さなプレートが残っている。


『Aurora Labo』


相沢はしばらく、それを見ていた。


前の場所で呼ばれていた名前だった。


人が出入りして、音が鳴って、失敗して、やり直して、何度も朝になった場所の名前。


それが、ここにも残っている。


「残したんだな」


相沢が言う。


高澤は壁を見たまま答えた。


「降ろす理由がない」


高澤は簡単に言った。


相沢は、その横顔を見た。


簡単に言える場所まで、こいつが持ってきた。


榊がいない間も、会議で止めて、数字を見て、人を通して、壊れない形に変えた。


相沢が知らないところで、何度も。


「……よく残したな」


礼にはならない声だった。


それでも、高澤は受け取った顔をした。


「残す必要があった」


相沢は鼻で笑う。


「表の名前じゃないだろ」


「表に出すための名前じゃない。戻る場所の名前だ」


相沢は黙った。


戻る場所。


その言葉が、思ったより深いところに落ちた。


戻るために残したのではない。


迷った時に、ここがどこから来たのか分かるように残してある。


そういう名前だった。


沈黙が、少し深くなる。


小さなプレートの銀文字が、廊下の灯りを受けて薄く光っていた。


相沢は、その光を見ていた。


看板は降ろしていない。


名前も、消していない。


ただ、置き場所が変わっただけだ。


「鳴らせるか」


相沢が言う。


高澤は一歩だけ近づく。


「鳴らせ。止めない」


その返事が早くて、相沢は少し笑った。


昔なら、たぶんもっと疑った。


本当に止めないのか。


本当に、壊れないのか。


今は、少しだけ違う。


壊れないようにされた場所で、壊さないまま深く行ける。


そういう面倒な場所に、いつの間にか立っていた。


相沢はプレートの端に、指先をそっと当てた。


冷たい金属の感触が、短く残る。


「前より深いな」


「前より広い」


高澤の声が、すぐ横で返ってくる。


相沢は指を離した。


それでも、名前は壁に残っていた。


Aurora Labo。


看板は降ろさない。


灯りは、消えていない。


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Aurora Labo 槇瀬璃子 @riiko3

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