第5話:「相補の辻――紅と闇」

 東山三条の辻。

 占い師の姿が夕闇の奥へ溶け去ったあとも、そこには、まだ名のつかぬ気配だけが残っておりました。


 冷たく、けれど甘く。

 まるで、さきほどすれ違った紅の匂いが、霧にまじって漂っているようでございます。


 ちひろは、しばらくその場に立ち尽くしておりましたが、やがて、そっと口をひらきました。


「……なごん。あのお方の言葉が、まだ胸のうちに残っているの。未来が定まらぬというのなら、今こうして握っているぬくもりさえ、たしかなものではないのかもしれない――そんな気がして」


 その声は、夜のしじまに吸われてしまいそうなほど細うございました。


 なごんは、すぐには答えず、ただ空を見上げました。

 雲の切れ間には、三日月がひとつ。

 鋭くもやさしい銀の刃のように、静かに空へ掛かっております。


「ちひろさま」


 やがて、なごんは静かに申しました。


「ご覧なさいませ。月には、満ちた姿もあれば、欠けた姿もございます。光に照らされる面もあれば、深い闇に沈んだままの面もある。けれど、それで月が月でなくなるわけではありますまい」


 そうして、冷えたちひろの指先を、自らの両手で包みました。


「見えているものだけが、真実とは限りませぬ。姿を見せぬもの、名を与えられておらぬもの、その奥にこそ、かえって深い実在が潜んでいることもあるのでしょう」


 ちひろは、その手の熱を受けとめながら、じっとなごんの横顔を見つめておりました。


 なごんは、少し微笑みました。


「人の世は、すぐに物ごとを一つに定めたがります。男か女か。光か闇か。定めか自由か、と。けれど、ほんとうは、そのいずれも、ただ一方だけでは成り立たぬのではなくて?」


 月の光が、なごんの頬をかすかに照らしました。

 その面差しは冴えて、どこかうつくしく危ううございました。


「光があるから、闇の深さも知れる。闇があるから、光の細さも見えてくる。対立しているように見えるものが、実はひそかに支え合っている――そのようなことも、世にはございますもの」


 そのとき、少し離れて歩いていた和泉が、そっとこちらへ近づいてまいりました。

 夜気に濡れたような瞳を月へ向け、そのまま、やわらかく一首を口ずさみます。


 **定めなき 波とも粒とも わかぬ間に

 君がまなざし 光をぞ編む**


 歌の余韻は、夜の空気へなめらかにほどけてゆきました。


 和泉は、ちひろを見つめ、静かに申しました。


「……ちひろさま。見えておらぬからこそ、美しいこともございます。まだ誰にも定められておらぬ闇のうちには、無数の可能が眠っておりますもの。ちひろさまのお心が、それを“をかし”と見出される、そのときまでは」


 ちひろは、ふと、さきほどの占い師が残していった紅の香りを思い出しました。

 そのとたん、足もとに白いものがあるのに気づきます。


 拾い上げてみれば、それは都では見たこともない、なめらかな紙片でございました。

 薄く、白く、けれど不思議に冷たい。


 そこには墨ではなく、異国の鋭い筆致で、ひとことだけ記されております。


**Contraria sunt complementa**


 ちひろは、その文字を見つめたまま、小さく呟きました。


「……これは、何やろ」


 なごんが、紙片をのぞき込みます。


「異国のことばにございますね。けれど、なんとなくわかる気がいたします。相反するものは、ただ争うためにあるのではなく、互いを成り立たせるためにこそ、ある――そのような意味ではないかしら」


 和泉が、ほのかに目を細めました。


「さきほどの御方、ただの辻占ではなかったのでございましょうね」


 ちひろは、占い師の消えていった霧の奥を見つめました。

 あの瞳。

 あの紅。

 男とも女とも言い切れぬ、美しくゆらぐ立ち姿。


 まるで、この世の境目という境目を、ひとつずつ撫でて歩くような人でございました。


「……あな、をかし」


 なごんが、かすかに笑いました。


「異国の賢者というものは、案外、都の辻で人の恋をのぞき見ておるのかもしれませぬね」


 その言葉に、ちひろもようやく、少しだけ微笑みました。


 未来が定まらぬということ。

 それは、行き先が見えぬ恐ろしさでもある。

 けれど同時に、まだ何ものにも閉じられていない、ということでもあるのでしょう。


 ひとつに決められぬまま、揺れているもの。

 名を与えきれぬもの。

 光だけでも、闇だけでもないもの。


 それらはみな、欠けているのではなく、まだ生きているのだと――そんなふうに思われました。


 ちひろは、なごんの手を握り直しました。

 つめたかった指先が、今はたしかに熱を帯びております。


 夜の東山三条には、まだ紅の匂いが残っておりました。

 それは、闇のなかにまぎれながらも消えぬ、小さな灯のようでもありました。


 この夜が、のちに何をひらくのか。

 その答えは、まだ誰にもわかりません。


 けれど、定まらぬからこそ、人はその先を夢見るのでございましょう。


 月は細く、夜は深く、二人の影は静かに重なっておりました。


**(第五話・完)**


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