第6話 女は魔物
イスパニアでは、日に八度鐘が鳴る。
修道士と信心深い者達にとっては、神に祈りを捧げる「お勤め」の合図だ。
朝、昼、夕の鐘は、食事時や仕事納めの合図になって助かるが、丑三つ時(午前三時)に打ち鳴らされる鐘は困りものだった。鐘打ちの修道士がうっかり寝過ごさない限り、真夜中に打ち鳴らされ、安らかな眠りを妨害する。昼間眠気に襲われる者も多く、イスパニアにはシエスタと呼ばれる昼寝の習慣もある。
ゴォン ガゴォン ガギゴォォン
安眠を妨害する夜中の耳障りな鐘の音に、一馬は無理やり現実に引き戻された。
――せっかくグロリアといちゃつく夢を見てたのに。
グロリアに耳朶を噛まれ、待ってくれと言ったのにキスをされて――。
――いや、ちょっと待てよ?
その後は確か、そんないい夢でもなかった気がする。
グロリアの首筋から漂ってくる、癖のある甘い香りにクラクラきて、もう何もかもどうにでもなれと思ったところで、
「この不届き者がぁ!」
師匠の声に邪魔をされたんだった。
空耳なのは解っていたが、反射的にグロリアを突き放し、
「やめろって!」
藁に自分の頭を突っ込んだ。
夢の話なのに、随分と鮮明に覚えている。
「何怒ってんの? あんたひょっとして男色家なの?」
それなら悪かったわねと言うグロリアに、
「違うっ! 俺は男色家じゃない!」
俺は全力で否定した。
――夢なのに。
「俺は別に、男色家ってわけじゃない。だけど、一人前になるまでは駄目なんだ。そういう誓いを立ててる。だから、頼むから、俺に触らないでくれっ!」
グロリアを拒みたい訳じゃないのに拒絶し、呆れたような視線から逃げた。
「変なの」
グロリアの言葉が胸に刺さる。
グロリアがあんまり刺激的で、夢の中とは言え、危うく戒めを破るところだった自分が恥ずかしい。一人前の忍になるまで、祖父の敵を討つその時までは、決して女を抱いてはならないと、固く誓っていたはずなのに。
「一馬、よっく聞けよ? 女というのは、得体の知れぬ妖術使いのようなものじゃ。魔物と言ってもいい。女に騙され、道を逸れた者や命を落とした者を、わしは何人も見てきた。お前には、じいさまの仇を討つという崇高な目的がある。わしのような日ノ本一の忍になるという立派な夢もある。仇討ちを果たし、夢を叶えたいのなら、わしがお前を一人前の忍と認めるその日までは、女人禁制と肝に命じておくがよい」
決して忘れるな。その代わり、一人前の忍になった暁には「どんな女も思いのまま」の秘技を伝授してやる、と師匠は約束してくれた。
師匠の言う通り、女は魔物だった。
グロリアに耳朶を噛まれた時、妖術でもかけられたみたいに己を忘れそうになった。色香に惑わされて術に嵌っては、これまでの厳しい修行が水の泡になる。
「……まぁいいわ。何だかよくわかんないけど、可愛いわね」
温かい掌で、藁からはみ出している背中を撫でられ、
「……ょっっ! だからよせって!」
変な声が出た。
グロリアの息遣いや体温まで感じる、妙に生々しい夢。
「はいはい。分かったから、それならちょっと寝るといいわ。そんなにムキになっちゃって。あんた疲れてるのね。真夜中に起こせばいいんでしょ? あたし夜は強いの。ちゃんと起こしてあげるから、安心して寝なさい」
「いや、大丈夫だから」
――そう言われても、眠る訳にはいかない!
万が一寝過ごしたら大変だ。皆が寝静まった頃合いを見計らってここを抜け出し、王宮に忍び込んで、師匠と話をしないといけない。
だけどグロリアが、
「眠れ、赤ちゃん、もう寝ましょう。寝ないとおばけが、食べにくる~」
小さな声で、物騒な歌詞の子守唄を歌い始めたら、どういう訳か急に眠気が襲ってきた。眠り薬でも飲まされたみたいに。
「おやすみ、カズマ」
グロリアに背を撫でられながら、結局一馬は眠りに落ちそうになって――。
「うん?」
一馬は跳ね起きた。
パラパラと、頭から藁が散る。
「あれ?」
まだ動きの鈍い頭をボカスカ殴って正気に戻す。
「グロリア?」
暗がりで目と手を使い、自分の傍らに居るはずのグロリアを探した。
「グロリア?」
――何処だ?
「グロリア、何処だ?」
「ブルルルルゥ」
返事は馬の嘶きだけで、一馬の全身から血の気が引いていく。
あれは夢じゃない!
夢なんかじゃあ、ないっ!
眠りに落ちる寸前まで、一馬の体を撫でていたグロリアは何処に行った?
嫌な予感に急き立てられるようにして藁山から飛び降りると、馬が一頭消えていた。
懐にしまっていた大金入りの皮袋も、一緒に消えた。
――やられた!
一馬は口を押さえた。
バクンバクンと早鐘を打つ心臓の音の隙間から、
「月の札には、不測の危機が起こるとか、裏切りって意味もある。用心するんだね」
バルボラの声が聞こえた気がした。
――裏切り?
「暴れ馬には気を付けるんだね」
あぁぁぁぁぁ、バルボラ!
そういえばバルボラ、そんな事も言ってなかったか?
バルボラの声に続いて、
「この大馬鹿もんが! だからお前は、何時まで経っても半人前なんじゃ!」
ここに居ない師匠の罵声が、確かに聞こえた。
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