第10話 今、できること
家では笑顔を見せた有紗。
氷姫であったことには理由があると言っていて。
今日の彼女の振る舞いは、変わらず氷姫のものだった。
僕の問いかけに、有紗は表情を暗くしたので、慌てて言葉を付け足す。
「あ、いや、なにか事情があるんならいいんだけどさ。ほら、笑うと可愛いのにもったいないというかさ? もっとみんなと仲良くなった方が楽しいんじゃかいかなーみたいな?」
あれ、動揺のせいか変なこと言ってないか、僕。そう思ったけど、もう走り出した勢いは止められず、ブレーキから手を放した。
「……私の父は、すごく厳しい人だったんです」
暗い表情のまま、ぽつりと呟いた有紗。
車窓の外を見つめている瞳は、けれど景色ではない何か別のものを見ているように思えた。
僕は小さく「うん」と相槌を打って、彼女の言葉の続きを待った。
「学校での友達とのお付き合いを、くだらない人間関係と言っていました。そんなくだらない奴らとの時間は捨てて、未来の自分に投資しろって」
「だから、誰とも関わらないようにしてたっていうのか? 冷たい態度を取って、誰も近づかないように」
「父に言われたから、と言うと少し違いますけど、父がそういう方針だったからというのは正しいかもしれません。白鷺家では、父がすべてでしたから」
含みのある言い方だった。
けどその先、つまり二つの違いを説明する雰囲気はなく、有紗はそのまま次の話へと進めていく。
「けど、今の私は白鷺家のルールから解放されて、言ってしまえば好きにできるようになったんです。だから、学校で友達を、とも思いました」
教室に入ったときに見せた一瞬の迷いは、そういうことだったようだ。
白鷺有紗ではなく、橙原有紗として新しく始めようという気持ちはあったのだ。
「じゃあ、どうして……?」
そうしなかったのか。
遠くから見ていれば、今日の有紗はこれまでと変わらなかった。彼女なりにいろいろと頑張っていたのかもしれないけど、少なくともその成果は見えていない。
「これまで私は、周囲を遠ざけるように振る舞ってきました。だから、今さら話しかけても受け入れてもらえないかもしれない。そう思うと、怖かったんです」
「……まあ、言わんとしていることは分かるけど」
僕は文化祭のとき以外、有紗と関わることはなかったけど、あのときの態度はそれはもう冷たかった。
人によっては嫌な思いをしたかもしれない。
なのに、それをなかったことにして話しかけられても、そりゃ受け入れる気分にはなれないか。
謝ればいいのかもしれないけど、そもそもその機会さえ与えられるかどうかっていうのもある。
「僕は嬉しかったけどね。有紗が本音でぶつかってきてくれて。けどそれは、家族っていう特別な関係になったからで、クラスメイトに話しかけるのとはまた違う」
そう言うと、有紗は顔を俯かせた。
父親にいろいろ縛られて生きてきたのだと思う。だとしたら、自分の気持ちに素直になるとか、本音を漏らすとか、そういうのが苦手になるのも頷ける。
「もうすぐ一年が終わって二年になるし、そこで改めて頑張ってみるとかでもいいんじゃないか?」
今は二月。
じきに今年度は幕を閉じるのだ。
二年生になればクラス替えもある、環境が変われば心境だって変わる。有紗への印象だって、悪くない人もいるはず。
「やらないとって思ってるのに、できないのはツラいだろ。それで自分を責めることになるくらいなら、今できることをやればいいんじゃないかな。ほら、今日だって電車の乗り方覚えたんだぜ?」
焦りは禁物、なんて言葉もある。
確かに前を向くことは大事だし、良いことだと思う。
けど、そこで無理すれば元も子もない。
できることからコツコツとっていうのもアリだと、僕は思うけどな。
「……そんなので、いいんですかね」
「いいもなにもないよ。有紗が決めたことをやればいい。そこに僕の助けが必要なら、言ってくれればいいし」
「……優しいですね、郁人くんは。ついつい甘えすぎちゃいそうで、ちょっとだけ困ります」
へへ、と自虐するように口角を上げる。
さっきまでの暗い表情はもうなかった。無理やりにでも笑ったおかげかもしれない。
「郁人くんがお義兄さんで、良かったです。私、少しずつ頑張るので、見ていてください」
*
父さんも紗苗さんも、昨日は有紗が家に来るからということで早くに帰宅していたけど、基本的には遅くまで働いている。
早く帰ってこれるなら帰ってきたらいいのに、とは思うけど、それが二人のライフスタイルだと言うのであれば何も言うまい。
そんなわけで、夕食の準備は僕が担当している。
二人とも疲れて帰ってくるだろうから、仕事は残しておきたくないのだ。
キッチンに立ち、腕を組みながら献立を考えていると、有紗が顔を出した。
「あの、郁人くん」
「ん?」
「なにかお手伝いできることはありますか?」
遠慮がちな物言いだけど、前のめりな姿勢は窺える。気持ちは汲んであげたいけどなあ……。
「一応訊くけど、料理の経験は?」
ふるふると首を横に振る。でしょうね。
挑戦するのはいいけど、失敗してまた落ち込まれても困るし、ここは別のものをお願いするか。
「晩ご飯をどうするかまだ考えてるところだから、じゃあお風呂の掃除をお願いできる?」
昨日失敗したことだ。
あれから何かを学んだのなら、リベンジのチャンスである。もし上手くいけば、それは自信に繋がる。
今の有紗には、すごく大事なことのはずだ。
「わ、わかりました! やってきます!」
気合い十分。
ふんすと鼻を鳴らした有紗は、キッチンを出ていった。
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