20.LINDBERG
彼は前を向いたまま、何も言わなかった。
その沈黙が、問いを終わらせたのか、
預けただけなのか、判断はつかない。
「……じゃあ。」
声は、意識する前に出ていた。
「こちらも個人的なことを聞いても?」
彼はすぐにはこちらを見ない。
けれど、眼鏡の奥の視線が、
ほんのわずかにこちらへ寄った気がした。
「内容によるね。」
軽い返しだ。
拒否ではない。
俺は一拍だけ置いてから、
続ける。
「あなたは。」
段差の冷たさを意識しながら、言葉を選ぶ。
「……こうして、何も決めずに座っている時間は嫌いですか。」
問いは、さっきのものよりずっと小さい。
しかし逃げ道は同じくらい少なかった。
通りの音が、一瞬だけ遠のいた。
「……嫌いではないよ。」
声は低く、飾り気もなかった。
彼は段差に腰かけたまま、眼鏡に手を伸ばすと、
そのまま指先でフレームの蔓を軽く押し上げた。
眼鏡を外した途端、
表情そのものは変わらないのに、
視線の輪郭だけが、はっきりする。
彼は眼鏡を畳み、
コートの内側にしまった。
その動作のあいだ、
一度もこちらを見なかった。
……ずるい。
そう思ったのは、たぶん俺だけだ。
「ただ、長くは続かない。」
それだけ言うと彼は立ち上がった。
眼鏡を外したままの横顔は、
街の影に溶けているのに、不思議と目立った。
「行きたいところがあるんだ。」
俺は段差から立ち上がりながら、
その横顔を、
見なかったことにした。
彼は歩き出す前に、一度だけ通りの先を見た。
「この先だ。」
それだけ言って、影の縁から外へ出る。
歩き方は速くない。
けれど迷いも無さそうだ。
人の流れと真正面からぶつからない角度を、
考えているようで、考えていないような足取りだった。
表通りに出ると、空が一段明るくなる。
さっきまで建物に切り取られていた光が、
ここでは遠慮なく降りてきて、
アスファルトの色まで少し正直に見せている。
彼は、帽子もサングラスも使わない。
それなのに、視線の高さや歩幅だけで、
目立つ場所とそうでない場所を、
無意識のように選んでいた。
通りの端を歩き、
ショーウィンドウの正面を避け、
信号の変わり目では一拍だけ遅れる。
それは逃げる動きというより、
舞台の外に立つ人間の、癖のようなもののように感じた。
少し歩いたところで、
彼はふいに速度を落とした。
人が立ち止まらない場所。
けれど、立ち止まれない理由もないような
中途半端な場所だった。
手すりの向こう、
建物の隙間から川が見えたが、水面の全部ではない。
端だけが、光を拾っていた。
「……ここでいいだろう。」
誰に確認するでもなく言い、彼は立ち止まった。
俺は、少し遅れて隣に立つと、
影がわずかに重なっていた。
水面の端に目を向けたまま、彼が静かに言う。
「ひとつ頼みがあるんだ。」
その声は、川の音にかき消されそうなくらい小さく、穏やかだった。
俺は息を詰めて、その先を待つ。
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