第一弟子である諏訪野さんによる虹乃解説。(ネタです)
「カクヨムコンの短編より長いじゃないですか!」
とちくわノート(第五弟子:ネタです)も絶句した「解説」が爆誕しました。
前置きはいいとして……
この諏訪野さんの「解説」の中でうれしかったのは、
・マクロとミクロを使い分ける
➤たしかに「らしさ」かもしれない。
・作者と読者の間でのウェットな依存が排除されている
➤なんのことやねん、だけどなんとなくわかる
「十人集まれば十の感想が出てくるのが常ではあるが、こと虹乃作品においてはその感想が実に様々で、あるいは作者も想像していないような大喜利状態になっているのが大変興味深い。その理由について私は、彼女が自身の作品においてある特定のテーマに誘導しようという意識をあまり持っていないからではないかと推測しているのだが、果たしてどうだろうか。それは例えば作者が、ロマンチストであると同時にリアリストである点に起因しているからである、と言い換えてもよいかもしれない。」
これは商業の世界においては欠点ともなりえ、ゆえに、うれしかったです。ありがとうございました。
なおノベラボグランプリ受賞時の講評まで調べてくださったようですが、それは今でも残っています。ただこちらについて補足しておくと、実際の書籍化作業を担当した編集者からその指摘はなく、基本は専門用語を一切直していません。
(わかんなくてもいいと思ってる)
これは私が「リアリティ」にひじょうにこだわっているせいであって、だってずっとスケートしてるダーリーンが技について「これはこういう技なんだけど」みたいに文中で説明するのっておかしくない!?
(やり方はいろいろありますけど)
私が書く一人称小説において、主人公の風貌描写が極限まで少ない理由もこのあたりにあります。
(繰り返しますが、やり方はいろいろありますけど)
ダーリーンの語りなのだから、専門用語がバンバン出るのが一番ナチュラルなんですよ。
そこがわかんなくてもストーリーを追う感動には一切の制限はないと思ってる。
だって現実の人間社会で、だれかのことを真に理解することなんて無理じゃないですか。
解説の中では優しく寄り添ってくれるって書いてくださってますし、他の方からもそう言っていただけることは多いんですけど、
その実、実際には結構突き放してる描き方をしているような気がします。
「理解できなくてもいい」
「わからなくてもいいと思ってる」
『そのハミングは7』の書籍化作業のとき、担当編集が
「虹乃さん、それじゃだめだ!」
っていいました。
でも、校了後に話したときに、
「あのときはそう思っていたけれど、いまではわからなくていいと思ってます」
と、言ってくれました。
ぜんぶわかってしまうなんてつまらない。
わからないからこそ、人生はたどる楽しみがある。
このあたりは、ランディの格言に通じるところがあるようです。
なにやら語り過ぎました。
気になった人は読んでみてください。
すてきな一冊になりました。どうぞよろしくおねがいします!