吸血鬼の姫と守護者(前編)

 夜の帳が下りた街は、街灯のオレンジ色とネオンの毒々しい色彩に縁取られていた。


 この数週間、ネットの掲示板やSNSの一部界隈では、ある「噂」が急速に拡散されている。


​『宵闇を駆ける、真祖の影』


『高身長、金髪、燃えるような赤い瞳』


『屋根から屋根へと跳躍し、獲物を探している』


​ そんな都市伝説じみた書き込みに、誰よりも早く食いついた者がいた。


​「間違いないよミキヤ! これはSSR級のイベント発生だよ! ついにこの街にも、ボク以外の『人ならざる者』が姿を現したんだ!」

 

 リビングのソファで、プレミアムモルツの缶を片手に鼻息を荒くしているのは、この家の居候――リアだ。癖のあるショートボブを揺らし、青みがかった瞳を輝かせている。


 その対面、ローテーブルで資産運用のチャートを眺めていたミキヤは、視線すら上げずに鼻で笑った。


​「お前以外の、ね。……単なるコスプレイヤーか、暇を持て余したパルクール愛好家だろ。第一、吸血鬼が屋根の上を跳ね回るなんて、どこのブラム・ストーカーだよ。情報が古臭ぇんだよ」


​「わかってないなぁ、これだから現実主義のオジサンは。見てよ、この目撃証言の数々! 『重力を無視した動きだった』『人間には不可能な跳躍を見た』……これはもう、ボクの故郷……いや、それに準ずる異界の住人としか思えないねぇ」


​「故郷ねぇ。お前の故郷は、ビールの空き缶と課金履歴が詰まったゴミ箱の間じゃなかったか?」


​「失礼な! ボクは今、真面目に調査(パトロール)の計画を立てているんだ。いいかい、ミキヤ。もし本物の吸血鬼なら、ボクのような絶世の美少女を放っておくはずがない。つまり、ボクが囮になれば一発で釣れるというわけだ。完璧なロジックだろう?」


​「お前のその『残念なバストサイズ』に吸血鬼が興味を持つかどうかは怪しいがな。……まあ、夜遊びが過ぎて警察に補導されるなよ。俺は迎えに行かねぇからな」


​「ふふん、心配しなくても大丈夫。ボクには『聖域の加護』があるからね!」


​ リアはそう豪語して、ビールの最後の一滴を飲み干すと、クローゼットからお気に入りのジャケットを引っ張り出した。


 外出時の彼女は、柔軟剤と微かな香水の香りに包まれた「完璧な清潔感のある美少女」へと変貌する。家の中でのズボラな姿からは想像もつかない、その「防護壁」を纏った彼女は、意気揚々と夜の街へと繰り出していった。


​ ミキヤは、閉まったドアを見つめ、一つ溜息をついた。


「……ったく、しょうがねぇな」


 彼はタブレットを閉じると、ウルフ気味の黒髪を無造作に掻き上げ、使い古した上着を手に取った。放っておけば、あのポンコツは文字通り「不審者」として通報されかねない。


​ 夜の公園。


 街灯がまばらなその場所は、深夜ともなれば静寂が支配する。


 リアは、生い茂る木々の影に隠れながら、スマホのカメラを構えていた。


「……いないねぇ。やっぱり公園みたいなベタな場所には現れないのかな。それとも、ボクの美少女オーラが神々しすぎて、吸血鬼の方が気圧されているのかな?」


 独り言を呟きながら周囲を見渡していた、その時だった。


​ ベンチの近く、街灯の光が辛うじて届く境界線に、一人の少女が立っていた。


 真っ白な肌。


 夜風に揺れる、透き通るような白金色の髪。


 そして、暗闇の中で微かに赤く潤んで見える、不思議な瞳。


​ リアの脳内で、何かが弾けた。


「……SSR、キターーー!!」


​ 彼女は隠れるのも忘れ、全力で少女に向かって突撃した。


「そこのお嬢さん! 止まりたまえ! 君、もしかして吸血鬼!? いや、吸血鬼だよね!? その透き通るような肌、神秘的な瞳……マジでレベチだよ! ボクと今度、月夜の下で濃厚な百合絡みでもしてくれないかな!? スクショ! スクショ撮らせて!」


​ 不審者。


 客観的に見て、今のリアを形容する言葉はそれ以外に存在しなかった。


 少女――エリカは、突然現れた「自称・美少女の変質者」を前に、驚きで言葉を失っていた。


​「あ、あの……えっと……?」


「照れなくていいんだよ! 同じ『夜に生きる者』として、ボクたちは魂のレベルで惹かれ合っているんだ! さあ、ボクの首筋を噛んでもいいよ? プレモル成分がたっぷり入っているけどね!」


​ リアがにじり寄るたびに、エリカは困惑したように後退する。


 しかし、そのコミカルな光景を、冷酷な視線で見つめる影があった。


​ 公園の入り口付近に、数人の男たちが集まっていた。


 浅黒い肌、粗末な服装。独特の言語で囁き合う彼らは、この界隈で活動する移民のグループだった。彼らの目的は、夜の散歩を楽しむ少女ではない。彼らの故郷に伝わる、恐ろしい迷信――「アルビノの肉体には呪術的な力がある」という狂信的な信仰に基づいた呪物バイヤーから金を受け取る、非道な「狩り」であった。


​「……あれか。あの白い髪の女だな」


 一人が、隠し持った刃物を鈍く光らせる。


 彼らにとって、エリカは一人の人間ではなく、高値で取引される「呪術の触媒」でしかなかった。


​「おい、邪魔な子供も一緒に片付けるぞ」


 男たちが、獲物を囲むように動き出す。


 リアは、持ち前の危機管理能力の低さゆえに、その殺気に気付いていない。エリカだけが、本能的な恐怖に身体を強張らせていた。


​ その時。


​ ――ガツンッ、と。


 コンクリートの屋根を蹴る、重厚な音が響いた。


​「え……?」


 リアが顔を上げると同時に、頭上の東屋の屋根から、巨大な影が舞い降りた。


 それは、まさに「噂」の具現化だった。


 高い身長を包む黒いライダースジャケット。逆立った金髪。そして、挑発するように吊り上がった双眸。


​ 影は、着地の勢いを殺すことなく、最前線にいた男の一人に肉薄した。


 次の瞬間、物理法則を無視したような光景が展開される。


​ 影――のちにユウと呼ばれたその青年は、男の胸ぐらを片手で掴むと、まるで羽毛でも扱うかのように、軽々とその巨体を放り投げた。


 男の身体が宙を舞い、数メートル先の植え込みに激突する。鈍い骨折音と悲鳴が、夜の公園に響き渡った。


​「……ッ!? なんだ、こいつは!」


 残りの男たちがたじろぐ中、ユウはゆっくりと、怯えるエリカの方へと歩み寄った。


 そして、あえて男たちに見せつけるように、彼女の細い肩を抱き寄せると、その白い首筋に顔を埋めた。


​「ひっ……!」


 エリカが短い悲鳴を上げる。


 傍目には、それはまさに「吸血鬼が眷属に血の洗礼を与えている」光景にしか見えなかった。


 ユウは男たちを、燃えるような眼差しで射抜く。


「……失せろ。これは、俺の獲物だ」


​ その低く、底冷えのする声に、男たちは戦慄した。


 人間離れした怪力。そして、吸血の儀式。


 シャーマニズムの恐怖すら上書きするような「本物の怪異」を前に、男たちは腰を抜かさんばかりに逃げ出していった。


​ その一部始終を、至近距離で目撃していたリアはというと――。


​「ほわぁああああ! 本物! 本物だよこれ! 今の構図、マジでエモすぎる! スクショ! スクショだよミキヤ! ……あ、いないんだった! ボクのスマホ、連写機能どこだっけ!?」


​ 場違い極まりない興奮に身を浸すリア。


 そんな彼女の背後から、ひどく「くたびれた」声が響いた。


​「……お前、いい加減にしろや」


 そこには、目つきの悪い男――ミキヤが、呆れた顔で立っていた。


​「あ、ミキヤ! 見て見て、あそこに吸血鬼と吸血鬼のお姫様が……!」


 リアが指差した先。


 男たちが去ったのを確認したユウは、そっとエリカから顔を離した。


 エリカは、震える声で呟いた。


「……ユウ、くん?」


​ ユウは何も答えず、ただ優しく、一瞬だけ彼女の白い髪に触れた。


 そして、驚異的な跳躍力で近くの塀を駆け上がり、夜の闇の中へと消えていった。


​「あ……待って!」


 エリカの呼びかけは、夜風に消えた。


 残されたのは、呆然とする少女と、興奮冷めやらぬ居候、そして全てを冷ややかに見つめる投資家だけだった。

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