第八章 運命が触れる刻【Ⅱ】

第2話 趨勢すうせい


SideA

 フロンティア・ノルドの午後は、陽光が黄金色の粒子となって降り注ぎ、静かな余韻を残して流れていた。朝の訓練を終えた中庭には、ウィシアが放った淡い魔力の残滓が、虹色の霧のようにたゆたっている。


「今日はここまでにしましょう。集中力が切れてからでは、魔力に振り回されるだけよ」


 セラの穏やかな通告に、ウィシアは素直に頷いた。

 額に浮かんだ汗を手の甲で拭いながらも、その表情に疲労の色はない。むしろ、パズルの最後の欠片を嵌めた瞬間のような、瑞々しく落ち着いた輝きがその瞳に宿っていた。


「ねえ、先生」

「なにかしら、シア」

「魔力って……ちゃんと、世界とつながってるんだね。私が『こうしたいな』って思うと、風やお花が『いいよ』って答えてくれるみたい」


 セラフィーネは一瞬だけ、その「あまりに正しすぎる認識」に瞬きをし、慈しむように微笑んだ。

「ええ。その通りよ。だからこそ、独りよがりの力任せでは扱えないの。魔力は単なる『力』ではなく、貴女と世界との『関係』そのものだということを忘れないで」


 ウィシアはその言葉を深く噛みしめるように、静かに頷く。理解しているというより、そのことわりを肌で知っている……そんな様子だった。


 少し離れた屋敷のテラスから、腕を組んでその光景を眺めていたアルトは、苦い煙草を噛むような表情で考え込んでいた。


(成長が早すぎる。……いや、教えているというより、彼女は『かつての感覚』をなぞって思い出しているだけに見える)


 魔力の扱いも、自然への接し方も、倫理観ですら、誰かに一から叩き込まれたというより、最初から彼女の魂に刻み込まれていたかのようだった。その「天衣無縫さ」こそが、アルトにとっては最も恐ろしい『魔王の遺産』に見えてしまう。


「アルト様」

 ヴィルヤードが背後から音もなく現れ、声を落とした。

「南方からの報告です。王国の勇者一行が、ついに『迷いの森』へ向かったとの情報が入りました」


 アルトは視線をウィシアに向けたまま、感情を殺して答える。

「……あの森か。意志を持つ境界線。突破を望まぬ者、資格なき者を永遠に拒絶する魔素の牢獄か。あいつら、あの『漆黒の闇』を正面から抜けるつもりか? 抜けることができないからこその『迷いの森』なんだがな」


「はい。王国の外縁による勇者討伐訓練の報告は上がっていますが、それ以上は一切の不明。ですが、あの領域に踏み入ったとなれば……万が一ということも考えられます。我々の『結界』の端に触れる可能性も」


 その言葉を聞き、アルトはふと、数ヶ月前のウィシアの言葉を思い出していた。


『簡単だよ。森の前でお願いしたの。“移住希望者“は、ちゃんと教えて通してあげてね、って』


(万が一、か。……あの森を統べているのが『誰の願い』なのか、王国側は微塵も気づいていないんだろうな)


 アルトの口元に、自嘲気味で、しかし誇らしげな笑みが微かに漏れた。それは、この十年で初めて、自分が育てた「娘」に贈る、心からの賞賛に近いものだった。


「さぁて……果たして、彼らに『招待状』は届くかな?」


 北は、望まぬ者は抜け出せない。

 ならば南は、ここを望んでいるのか?

 アルトは、遠く霞む南の空を見上げ、誰に向けるでもなく呟いた。


「さぁ、やってこれるかな?」


SideB


 想次郎たちが召喚されてから、すでに半年という月日が流れていた。

 王都外縁での過酷な訓練の日々。重い鉄を振り回し、体内の魔力を限界まで練り上げ、循環させる。それが、生きるために課せられた、逃れられぬ日課となっていた。


 王都の空は、今日も湿った鉄のような色で澱んでいる。低く垂れ込めた雲が、白亜の塔の影を地面に長く引き伸ばし、まるで見えない鎖のように街を縛り付けていた。


 王との謁見を辞した後、ユリウスは一人、回廊の端で立ち尽くしていた。石造りの壁に触れた指先は氷のように冷たい。それは、この王国の在り方そのもののようだった。


(……これで、良かったのか。彼らを『選別』の檻に放り込んで)


 王命は明確だった。勇者一行を、辺境との境界にある『迷いの森』へ向かわせること。表向きは実践的なレベル向上のため。だがその実態は、北方の不穏な動きを探るための、王国の『捨て駒』に近い偵察任務だった。


 ユリウスは知っている。あの森が、どれほど異常な場所であるかを。

 古くから「進めぬ者を選別する」と囁かれ、踏み入った者の精神を魔素の濁流で蝕む。魔素濃度が異常に高く、選ばれた強者でなければ、方向感覚すら奪われ、二度と太陽を拝むことはできない。


(試しているのか……それとも、切り捨てているのか)


「ユリウスさん」

 背後から穏やかな声がかけられ、ユリウスは肩を震わせて振り返った。

 そこには、すでに旅装を完璧に整えた想次郎、瞬、詩音、ひよりが立っていた。


「準備、整いました。森の調査任務、行ってきます」

 想次郎は、いつもと変わらぬ、春の日差しのような微笑みを浮かべている。その顔を見るたび、ユリウスの胸の奥は、鋭い刃で抉られるような痛みに襲われた。


(伝えるべきか……? この任務に秘められた、王国の非情な選別思想を。突破できぬ者は死ねと言わんばかりの、この国のやり方を)


 だが、ユリウスは結局、重い沈黙を選んだ。ここで迷いを与えれば、それこそが彼らを死に追いやる。

「……無事を、祈っている。それだけだ」


「大丈夫ですよ!」

 瞬が、いつものように軽く笑って、巨大な剣の柄を叩いた。

「俺たち、もう前の俺たちじゃないですから。結構やれますよ、見ててください!」


「ええ」

詩音も凛とした表情で頷く。

「森だろうが何だろうが、魔法を放てば同じことです」


 ひよりは無言で杖を握りしめ、風の精霊たちが囁く不穏な響きに目を閉じた。そして、小さく頷いて微笑む。その信頼の形が、ユリウスには眩しすぎて、直視できなかった。


「想次郎」

 立ち去ろうとする彼の背中を、ユリウスは思わず呼び止めた。

「……何があっても、戻ってこい。森に飲まれるな。己を見失うな」


 想次郎は少しだけ驚いたように目を見開き、それから深く、深く微笑んだ。

「はい。必ず、みんなを連れて戻ります。約束しますよ、ユリウスさん」


 短い返事。だが、その言葉には、どの騎士よりも重い『覚悟』が宿っていた。

 城門を抜けていく四人の背中を、ユリウスは見送る。


(王国のためか。それとも彼らの運命か。……北か。元気でやっているのか、アルトリウス)


 知り合いでもいるかのような口振りで、彼は空を見上げ、答えを探した。

 やがて、彼らの視界に『迷いの森』が姿を現した。濃い霧と歪んだ木々が、拒絶するかのように立ちはだかっている。想次郎は一度だけ振り返り、深く息を吸った。


「行こう」


 その言葉に、異を唱える者はいない。

 彼らはまだ知らない。この森が、魔素に敏感な『成長した者』ほど、その精神を狂わせ立ち止まらせる場所であることを。そして、王国の選択がもたらした因果を、最初に突きつけられるのが、この四人であるということを。


 趨勢すうせいは、霧の向こう側で静かに、激突の時を待っていた。

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