手錠をかけるのは、焚き火が燃え尽きてから。~濡れ衣を着せられた逃亡犯と、彼を追うベテラン刑事の長い夜~

すまげんちゃんねる

第1話 轍の追跡

 灰色の雲が垂れ込める空の下、乾いたアスファルトの上を一筋のわだちが伸びていた。


 ステアリングを握る久我山譲くがやま ゆずるの手には、油の染み付いた軍手が嵌められている。

 車は盗難車の古いセダン。ナンバープレートは付け替え、塗装もスプレーで雑に塗りつぶしてある。傍目には廃車寸前のポンコツに見えるだろうが、エンジンだけは整備済みだ。

 カーラジオからは、ノイズ混じりのニュースが淡々と流れている。


『――現在も逃走を続けています。指名手配中の元刑事、久我山譲容疑者、四十二歳。一昨日の未明、同僚警察官を殺害し拳銃を奪って逃走した疑いで……』


「……フッ、元刑事か」


 久我山は自嘲気味に呟き、助手席に置かれた拳銃を一瞥した。

 ニューナンブM60。回転式拳銃。

 かつて自分が腰に吊るしていた「正義」の象徴が、今は「殺人の凶器」として手配されている。皮肉な話だ。


 殺したのは俺じゃない――などと言っても、誰も信じないだろう。

 現場には俺の指紋が付いた凶器が残され、監視カメラには俺が血塗れで走り去る姿が映っていた。完璧な脚本だ。あまりにも綺麗すぎて、反論する気も起きないほどに。


 久我山はアクセルを踏み込んだ。

 行き先は決まっている。地図を見る必要はない。

 県境を越え、北の山脈を抜けた先にある、三日月形の湖。

 かつて娘と最後に来た場所であり、俺の人生が終わった場所だ。


(待ってろ、あかね。……パパも、もうすぐ行く)


 車の窓ガラスを、冷たい雨粒が叩き始めた。


          *


「おい、室戸! どこへ行く気だ!」


 捜査本部のど真ん中で、怒鳴り声が飛んだ。

 室戸剛造むろと ごうぞうは、ヨレたトレンチコートの襟を立て、上司の剣幕を柳に風と受け流す。


「現場検証の追加だ。……どうも腑に落ちん点があってな」

「現場ならもう鑑識が舐めるように調べただろう! 今は検問だ! 久我山の確保に全力を挙げろ!」

「はいはい。分かりましたよ、課長」


 室戸は気のない返事を返すと、そのまま捜査本部を出て、自分の覆面パトカーに乗り込んだ。

 助手席には、コンビニで買った握り飯と、愛飲している缶コーヒーが放り投げてある。


「……阿呆が。検問なんかで捕まるようなタマかよ、アイツは」


 室戸は煙草に火を点け、紫煙を吐き出した。

 久我山譲。

 かつて自分が教育係として育て上げ、後に相棒として数々の修羅場を潜り抜けてきた男だ。

 実直で、融通が利かず、正義感が服を着て歩いているような男。

 そんな奴が同僚を殺して拳銃を奪う? ありえない。百パーセント、裏がある。


 だが、今の組織は「犯人=久我山」というシナリオで完全に固まっている。異論を挟む余地はない。

 ならば、自分で動くしかない。


(久我山。お前がやったんじゃないことは分かってる。……だが、お前ならどうする?)


 室戸は目を閉じ、相棒の思考をトレースする。

 無実を訴えるためにマスコミへ駆け込むか? いや、そんな器用な真似はできん。

 海外へ高飛びするか? いや、家族との思い出があるこの国を離れる男じゃない。

 だとすれば――。


 室戸の脳裏に、ある光景が浮かんだ。

 五年前のあの日。

 ずぶ濡れになりながら、冷たい湖畔で娘の亡骸を抱きしめ、声を枯らして泣いていた久我山の姿。

 あの日以来、あいつの魂の半分は、あの水底に置いてきたままになっている。


「……あそこか」


 室戸は確信と共にギアを入れた。

 警察の包囲網は、主要幹線道路と駅、空港に集中している。北の山間部へ抜ける旧道はノーマークだ。

 もし、あいつが全てを諦めて、「死に場所」を求めているのだとしたら。

 行き先は一つしかない。


 室戸の刑事としての、いや、親代わりとしての長年の知恵が、ナビよりも正確に目的地を指し示していた。


          *


 日暮れが近づくにつれ、山道は暗さと静けさを増していく。

 室戸の運転する車が、わだちの残る林道を慎重に進む。


「……ビンゴだ」


 ヘッドライトが照らし出した泥道に、比較的新しいタイヤ痕が刻まれていた。

 タイヤの溝がすり減っている。盗難車によくある整備不良の特徴だ。

 間違いない。先行している車がいる。


 無線機から、本部の苛立った声がノイズ交じりに聞こえてくる。

 『――検問突破の報告なし。久我山はまだエリア内に潜伏している可能性が大――』


 室戸は無線機のボリュームを最小まで下げた。

 組織の命令などクソ喰らえだ。

 これは、俺とアイツの個人的な決着ヤマだ。


 三日月湖まで、あと五キロ。

 室戸はアクセルを緩め、ライトを消した。

 闇に目を慣らす。

 エンジン音を極力抑え、獣のように気配を殺して獲物に近づく。


 木々の隙間から、鈍色の湖面が見え始めた。

 そのほとり。

 閉鎖されたオートキャンプ場の入り口に、乗り捨てられた一台のセダンが停まっていた。

 ボンネットからは、まだ熱気が立ち昇っている。


「……見つけたぞ、久我山」


 室戸は静かに車を停め、懐から愛用の回転式拳銃リボルバーを取り出した。

 弾丸は満装填。安全装置はない。

 雨はいつの間にか止み、冷たい風が枯れ葉を舞い上げている。


 室戸はドアを音もなく開け、湿った土の上に降り立った。

 この先に、アイツがいる。

 銃口を向ける覚悟はできているか?

 引き金を引けるか? かつての愛弟子相手に。


 室戸は小さく首を振った。

 考えるのは後だ。まずは会う。

 男たちの最後の会合が、幕を開けようとしていた。

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