第1話 締め切りのない原稿
原稿ファイルを閉じるまでに、三分かかった。
その三分のあいだ、私は画面を見つめ続けていた。
カーソルは点滅しているのに、文章は増えない。削除もしない。ただ、そこに表示された一文を読むだけだった。
これは、最後まで書いてはいけなかった小説だ。
閉じたあとも、文字列は網膜の裏に残っていた。
パソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がる。
肩が固まっている。いつから同じ姿勢でいたのか思い出せない。机の端には、冷めきったコーヒーが置いてあった。表面に浮いた薄い膜が、部屋の蛍光灯を鈍く反射している。
時計を見る。午前二時三十七分。
締め切りは、明日の正午だった。
私はため息をつき、スマートフォンを手に取る。
編集者の朝倉から、三件のメッセージが届いていた。
「進捗どうですか?」
「途中でもいいので見せてください」
「今回、本当に期待してます」
短い文面なのに、妙に重く感じる。
私は返信を打ちかけて、やめた。
――まだ何も書けていません。
そんな言葉を送ったところで、状況が良くなるわけではない。
スマホを机に伏せると、画面が暗くなる。その黒い反射に、自分の顔がぼんやり映っていた。
疲れている顔だった。
いや、疲れているというより、少しずれている。そんな印象を受ける。
私はもう一度パソコンを起動した。
ログイン画面が表示されるまでの数秒が、やけに長く感じる。
ようやくデスクトップが開き、例の原稿ファイルが中央に浮かび上がる。保存日時は、さっき閉じた時刻のままだ。
カーソルを合わせる。
一瞬だけ、ためらった。
理由は分からない。ただ、開いてはいけないものを触る前のような、妙な感覚が指先に残った。
クリックする。
原稿はすぐに開いた。
私は無意識にスクロールバーを確認する。
やはり、文章は増えていない。ページは一枚分だけだ。
表示されている文を読む。
これは、最後まで書いてはいけなかった小説だ。
――変わっていない。
そう思った瞬間、違和感が生まれた。
「変わっていない」と判断したこと自体に、どこか引っかかりを覚える。まるで、本当は変わっていてほしかったかのような感覚だった。
私は新しい行を作る。
そして、ゆっくりと打ち始めた。
「私は、この文章を書いた覚えがない。」
キーボードを叩く音が、やけに大きく響く。
部屋は静まり返っていた。冷蔵庫の低い唸り声と、換気扇の回転音だけが、遠くで重なっている。
続けて書く。
「だが、この文章は確かに私の癖で書かれている。」
そこで手が止まる。
違う。何かがおかしい。私は確かに今、その文を入力したはずなのに、文章を読み返すと、ほんの少しだけ言い回しが違っている気がした。
私は画面に顔を近づける。
そこに表示されていたのは――
「だが、この文章は確かに私の癖で書かれていた。」
語尾が変わっている。
過去形に。
背中に冷たいものが走った。
私は慌ててキーボードを叩く。
修正しようとした瞬間、カーソルが一行上に移動した。操作した覚えはない。カーソルは、冒頭の一文の末尾で点滅を始める。
これは、最後まで書いてはいけなかった小説だ▮
その点滅を見つめていると、不意に通知音が鳴った。
スマートフォンだ。
画面には、朝倉の新しいメッセージが表示されていた。
「最初の一文、変えました?」
私は、しばらく意味が理解できなかった。
「さっき送ってもらった原稿、冒頭が変わってますよね」
送っていない。
私は、まだ一度も原稿を共有していない。
指先が冷える。
私は震える手で返信を打つ。
「送ってません」
既読がつくまで、三秒。
返信はすぐに届いた。
「え? じゃあ、これ誰から来たんですか」
続けて、ファイルが添付される。
ファイル名は、私が使っているものと同じだった。
私は、それを開こうとして――
なぜか、原稿ファイルの画面へ視線を戻してしまう。
そこには、さっきまで存在しなかった一行が増えていた。
「編集者は、この原稿をすでに読んでいる。」
私は、まだ、その文章を書いていない。
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