第36話:アンカー・ポイント



 査察官たちの軍靴が石畳を叩く音は、数学的な規則性を持って近づいていた。


「……テオ、もう時間がないわ。正面の結界は彼らの魔力であっさり突破される。裏口も封鎖されているはずよ」

 ヴァレリーが腰のバールを握り直し、窓の外を伺う。彼女の瞳には、かつての部下たちを敵に回す覚悟と、それ以上の冷静さが宿っていた。


「正面突破も裏口利用も、魔法的な思考回路(アルゴリズム)です。物理的な解は、常にその『間』にあります」

 テオは包帯の巻かれた手で、鑑定所の床に置かれた巨大な振り子時計――師匠が遺した旧式時計の底にある重り(カウンターウェイト)を外した。


「カイル、この重りを二階の荷揚げ用滑車に。アイリス、君の魔力で一瞬だけ滑車の摩擦をゼロにして。……局長、彼らが扉を蹴破った瞬間に、時計のメインギアを逆転させてください」


「何をするつもりだ?」

 カイルが疑問を呈しながらも、テオの指示通りに重りを運ぶ。


「物理的なトラップです。魔法防御(マジックシールド)は『意志を持った攻撃』には反応しますが、単なる『質量の落下』という無機質な現象には極めて鈍感ですからね」


 数秒後、鑑定所の扉が光の爆散と共に吹き飛んだ。

「テオ、公務執行妨害および反逆の疑いで……」

 査察官が言葉を言い切る前に、ヴァレリーがギアを回した。


 二階から数十キロの鉄の重りが、物理法則に従い自由落下する。それは査察官の鼻先を掠め、床に設置されていた隠しレバーを叩いた。瞬間、テオたちが立っていた床の一部が、精密なシーソーのように跳ね上がり、四人を地下の「廃棄物処理路」へと放り込んだ。


 暗いダクトを滑り落ちながら、テオは自身の身体にかかる加速度を冷静に計算していた。

 魔法使いが「移動」に転移術式を使うのに対し、テオたちは「重力」そのものを動力として利用したのだ。


 辿り着いたのは、都市の最下層よりもさらに下、高密度の魔導配管が血管のように這い回る「アンカー・ポイント」と呼ばれる隔離区画だった。

 そこには、巨大な鋼鉄の爪が、折り畳まれた翼のように天井から吊り下げられていた。


「……これが、『錨(アンカー)』の実体ですか」

 テオがランプを掲げると、そこには数千年前の職人が鍛え上げたであろう、無骨な黒金の塊が鎮座していた。


 それは美しく磨かれた魔導具ではなく、ただひたすらに「衝撃に耐える」ことだけを目的に作られた、巨大な着陸脚だった。しかし、その関節部には、賢人会が意図的に流し込んだと思われる硬化樹脂(マジック・セメント)が、化石のようにこびりついている。


「物理的な封印ですね。魔法で溶かそうとすれば、この都市全体の浮力バランスが崩れるように設計されている。……アイリス、君の役割は、この脚を『開く』ことにある。だが、その前にこの『物理的な不備』を、私の手で取り除かなければならない」


 テオは火傷の痛みを無視し、バールを樹脂の隙間に差し込んだ。

「重力を恐れて空に逃げた者たちは、この錨を捨てた。だが、私たちはこれを再び地面に打ち込む必要がある」


 背後のダクトから、査察官たちの追撃の術式が光となって漏れ出していた。

 追われる身となった鑑定士たちは、都市の最底辺で、かつて人類が捨て去った「地面への回帰」という名の物理機構と対峙していた。

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