第29話:蒸気の中の死闘

 視界は、白一色の地獄だった。


 第ゼロ機関区の深部。破断した冷却パイプから噴き出す過熱蒸気は、200度を超える熱の壁となってテオに襲いかかった。通常の人間であれば肺を焼かれ、一瞬で意識を失う環境だ。しかし、テオは師匠から受け継いだ古びたガスマスクのフィルターをきつく締め、重い耐熱作業服の襟を立てた。


 絶縁体であるテオにとって、空間を埋め尽くす高密度の魔力は、単なる「肌にまとわりつく重い霧」でしかない。だが、その霧の向こう側で、都市の命運を握る物理的な心臓が悲鳴を上げていた。


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 テオが目指したのは、主機関の圧力を逃がすための「手動バイパス弁」だ。

 魔導核が暴走し、術式による制御が完全に失われた今、この都市を爆発から守る唯一の手段は、人間の腕力でこの巨大な真鍮ハンドルを回し、蒸気を外部へ逃がすことだけだった。


「……見つけました」


 蒸気のカーテンの向こうに、赤く塗られた巨大な円形ハンドルが姿を現した。

 しかし、そこにはサイレント・ギアによる非情な工作が施されていた。


 ハンドルの隙間に、高硬度のセラミック片が「楔(くさび)」として深く打ち込まれている。

 魔法で無理に動かそうとすれば、この楔がセンサーを誤認させ、機構に緊急ロックを誘発する仕組みだ。まさに、魔法社会の死角を突いた嫌がらせと言えた。


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 テオは腰の工具袋から、重さ3キロを超える大型のモンキーレンチを取り出した。

 魔法の杖などここにはない。あるのは、鋼鉄の質量と、テオ自身の筋肉が生み出す物理的な力だけだ。


 テオはレンチをハンドルの軸に噛ませ、全体重をかけて押し込んだ。


 ギィィィィィィィッ!!


 金属と金属が激しく擦れ合い、火花が蒸気の中でオレンジ色に散る。

 くさびが食い込み、ハンドルはびくともしない。熱によってテオの作業服からは煙が上がり始め、ガスマスクのレンズは結露で視覚を奪っていく。


 通信機からアイリスの悲鳴に近い声が聞こえる。だが、テオは答えなかった。

 答えるための酸素すら、今の彼には惜しかったからだ。


 テオは頭の中で、力学のベクトルを再計算する。

 支点はレンチの噛み合わせ。力点はテオの両腕。作用点は歪んだセラミックのくさび。

 力任せでは折れる。必要なのは、金属の「しなり」を利用した瞬間的な衝撃だ。


「……計算、完了」


 テオは一度力を抜き、次の瞬間、自身の全質量を一点に集中させてレンチの端を蹴り上げた。


 パキンッ!


 乾燥した音が響き、砕けたセラミック片がテオの頬をかすめて飛んだ。

 固定を失ったハンドルが、蒸気の圧力に押されるようにして、ゆっくりと回り始める。


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「……くっ、あああああ!」


 テオは両手でハンドルを掴み、渾身の力で回した。

 一回転、二回転。


 その瞬間、機関区全体を震わせるような轟音が鳴り響いた。

 排圧弁が開放され、行き場を失っていた過熱蒸気が排気ダクトへと一気に流れ込んでいく。


 急激な減圧に伴い、死の熱気が僅かに引いた。

 魔導核の暴走は止まっていない。だが、「物理的な爆発」という最悪のシナリオだけは、今この瞬間、一人の少年の腕力によって書き換えられたのだ。


 テオは膝をつき、激しく咳き込んだ。

 手袋越しでもわかるほど、手のひらは火傷で熱い。しかし、彼は歪んだ口角で小さく笑った。


「……鑑定、終了。不備は、まだ残っていますが……最低限の『命脈』は繋ぎましたよ、師匠」


 白い闇の中、テオは一人、静かにレンチを仕舞った。

 上層の創立祭では、今も人々が偽りの光に歓声を上げているだろう。

 その足元で、泥と蒸気にまみれて世界を繋ぎ止めた少年の姿を、知る者は誰もいなかった。

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