第4話: 見えない糸の正体
息を切らすという経験を、アイリス・ヴァン・フェルディナンドはこれまでの人生でほとんどしたことがなかった。
浮遊都市の上層から下層へと続く旧市街の時計塔。その内部にある螺旋階段は、数十年前に魔法式昇降機が導入されて以来、誰にも使われることなく放置されていた。ひび割れた石段には分厚い埃が積もり、手すりの鉄は赤茶色に錆びついている。窓のない塔の内部は薄暗く、カビと油の匂いが淀んでいた。
「足元に気をつけてください。三段に一段は、石の結合が脆くなっています。体重をかける前に、靴底で摩擦を確かめる癖をつけてください」
先を歩く灰色の作業服の少年は、振り返りもせずに淡々と言い放つ。
アイリスは無言で頷き、言われた通りに慎重に足を運んだ。普段であれば、微弱な浮遊魔法を展開して階段の上を滑るように進むか、あるいは空間転移で一瞬にして屋上に到達しているはずだった。しかし今、彼女は一切の魔力を封じ、自身の足の筋力と重力だけを頼りに階段を登っていた。
膝が笑い、ふくらはぎの筋肉が悲鳴を上げている。心臓は早鐘のように打ち、額からは汗が滲んでいた。高級な魔導衣はすでに埃にまみれている。しかし、アイリスの胸中を満たしていたのは疲労に対する不満ではなく、奇妙な高揚感だった。
一歩踏み出すたびに、石の硬さが足裏に伝わる。重力が自分を地上に繋ぎ止めているという圧倒的な手応えがある。魔法という万能のクッションを取り払った世界は、これほどまでに重く、苦しく、そして鮮烈なのだ。
「……着きました」
テオが軋む木製の扉を押し開けると、冷たい強風が塔の内部へと吹き込んできた。
旧市街の屋根の連なりが一望できる時計塔の頂上。環境制御魔法の網目からわずかに外れたこの場所では、風は統制を失い、物理的な暴力となって二人の髪を乱暴に揺らした。
テオは迷うことなく、屋上の縁に設置された古い石造りのガーゴイル像へと歩み寄った。アイリスもその後を追う。
「ここです。あなたの靴底にあった飛竜苔の胞子は、この屋根の縁で削り取られたものです」
テオが指差した先、ガーゴイル像の台座の裏側には、不自然な真新しい削り跡があった。しかし、彼の視線はその削り跡ではなく、像の首の根元に巻き付けられた「何か」に向けられていた。
テオは懐から厚手の革手袋を取り出してはめると、虚空に向かって手を伸ばした。
何もないはずの空間。しかし、彼の手が空中で止まり、何かを強く握りしめるような動作をした。ギリッ、と革手袋が嫌な音を立てる。
「……目を凝らしてみてください。魔法の気配を探るのではなく、光の反射角の違いを見つけるつもりで」
言われた通り、アイリスは魔力を眼に集めるのをやめ、ただの生身の視覚として空間を見つめた。
夕暮れの光が差し込む中、テオが握りしめている空間に、ほんの一瞬だけ、銀色の細い線がキラリと反射した。
「糸……?」
「正確には、極細の鋼線(ワイヤー)です。特殊な合金で打たれており、直径は一ミリにも満たない。しかし、その張力は凄まじい。この時計塔から、対角線上にある貴族街の空中回廊の支柱まで、ピンと張り詰められていました」
テオは鋼線を握ったまま、淡々と解説を始めた。
「昨夜、あなたはこの空域を相当な速度で飛翔していた。そして、この見えない鋼線に真っ直ぐ突っ込んだんです」
「でも、私には物理攻撃を弾く魔力障壁が展開されていたわ。たとえ鋼線であっても、触れた瞬間に障壁が反発して……」
「それは相手が『面積』を持っている場合です」
テオは容赦なく言葉を遮った。
「魔力障壁は、衝突した物体の運動エネルギーを魔法的なベクトルで分散させる仕組みです。しかし、この鋼線は細すぎる。物体が極めて細く、かつ強靭である場合、衝突のエネルギーは分散されることなく、ミクロの『点』あるいは『線』に極限まで集中します。物理学で言うところの『圧力』です。面積が小さければ小さいほど、同じ力でも圧力は天文学的に跳ね上がる」
テオはもう片方の手で、ポケットから取り出したチョークを握り潰してみせた。
「あなたの飛行速度が時速六十キロだとして、その速度のままこの鋼線に激突した。障壁は鋼線を弾き返そうとしましたが、鋼線の物理的な断面積があまりにも小さすぎたため、障壁の防御限界を圧力で突破してしまった。結果、鋼線は障壁をすり抜け、あなたの身体に直接、純粋な運動エネルギーの塊として激突したんです」
アイリスは息を呑んだ。
胸を打ったあの圧倒的な衝撃の正体。それは呪いでも魔法でもなく、ただ「細い金属の糸に、自分から猛スピードでぶつかっていった」という、あまりにも原始的で泥臭い物理現象だったのだ。
「犯人は魔法を一切使っていません。ただ、強靭な物理の糸を物理的な結び目で固定し、空中に張っただけです。魔力がないから、学園の魔導探知機には絶対に引っかからない。魔導師たちは『魔法の痕跡がない』という理由だけで、これを魔素の揺らぎという幻に責任転嫁した。彼らは、魔法が関与しない悪意が存在することすら想像できないのです」
テオは鋼線の端、ガーゴイルに結びつけられた部分をペンチで切断した。張り詰めていたテンションが解放され、空中の見えない糸がだらりと垂れ下がる。
「目的は暗殺ではないでしょう。この細さでは肉体を切断するには至らない。おそらく、浮遊魔法に頼り切った貴族たちに対する、悪意ある悪戯か、あるいは何らかの警告です。いずれにせよ、私の仕事はここまでです。原因は特定し、物理的な障害は取り除きました」
テオは切断した鋼線を丁寧に巻き取りながら、いつもの眠たげな目でアイリスを見た。
「あなたはもう安全です。これまで通り、完璧な魔法に守られた優雅な空の旅をお楽しみください。……鑑定料は、銀貨一枚で結構です」
それは、明確な拒絶だった。
魔法の世界の住人であるあなたと、物理の泥の中を這う自分は、ここで交わりを終える。そう言外に告げていた。テオにとって、この件は単なる「物理的矛盾の解消」に過ぎず、公爵令嬢との接点などただの面倒事でしかなかった。
しかし、アイリスは動かなかった。
彼女は屋上の冷たい風に銀髪を揺らしながら、テオの手にある鈍く光る鋼線の束を、まるで世界の真理でも見つけたかのような熱を帯びた瞳で見つめていた。
「……嫌よ」
アイリスの唇からこぼれたのは、貴族令嬢らしからぬ、子供のような強情な拒絶だった。
「優雅な空の旅なんて、もうたくさん。私は昨夜、この糸にぶつかって初めて、自分が生きている実感を得たの。魔法という分厚い手袋越しに世界に触れるのは、もう耐えられない。私は、もっと直接、この世界の手応えに触れたい」
彼女は一歩、テオに近づいた。その足取りは浮遊魔法の滑らかさではなく、靴底が石を叩く、確かな物理的質量を伴っていた。
「テオ。あなたは私の魔法を無効化する『絶縁体』だと言ったわね。そして、この世界の誰も見ようとしない『物理』という真実を見ることができる」
「……言いましたが。それが何か」
「私を、あなたの助手にして頂戴」
テオは微かに半眼を見開き、それから深々と、心底鬱陶しそうにため息をついた。
「お断りします。私の鑑定所は埃っぽく、油臭く、そして何より地味です。公爵令嬢の遊び場ではありません」
「遊びではないわ。私は本気よ。銀貨一枚と言わず、金貨百枚でも払うわ」
「物理法則は金貨で買えるものではありません」
「なら、私がその『摩擦』とやらを体で覚えるまで、毎日あなたの店に通うわ。私が魔法を使わずにドアを開けられるようになるまでね」
堂々たる宣言。それは、浮遊都市の完璧な空から、重力に縛られた泥だらけの地上へと、自ら望んで墜落していく令嬢の誕生の瞬間だった。
テオは頭を掻きむしり、空を見上げた。環境制御された不自然な青空は、今日も変わらず都市を覆っている。しかし、彼の平穏な省エネ生活は、どうやらこの見えない糸によって、決定的に巻き取られてしまったようだった。
「……勝手にしてください。ただし、店では一切の魔法使用を禁じます。お茶を淹れる時は、自分の手でヤカンを持ってもらいますからね」
「ええ、望むところよ」
アイリスは、これまで見せたどんな優雅な微笑みよりも、鮮烈で生々しい笑顔を浮かべた。
こうして、極大魔力の令嬢と無魔の鑑定士という、都市で最も歪な二つの歯車は、静かに噛み合い始めたのである。
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