第2話: 墜落する宝石
浮遊都市の夕暮れは、計算された美しさを持っている。環境制御機構が太陽光の屈折率を精密に調整し、街全体を完璧な茜色で包み込む。空には雲一つなく、風の強さすらも心地よい微風に固定されていた。
公爵令嬢アイリスは、その完璧な空を滑るように飛翔していた。
彼女の足元には、極めて高度な術式である多重浮遊陣が展開されている。常人であれば詠唱に数分を要し、維持するだけで多大な精神力を消耗する大魔術だ。しかし、百年に一人の天才と称されるアイリスにとって、それは呼吸をするのと同じくらい容易い行為だった。彼女はただ「空を飛びたい」と結果を望むだけでいい。莫大な魔力が自動的に術式を構築し、重力という名の鎖を断ち切ってくれる。
しかし、アイリスのサファイアのような碧眼に、飛翔の喜びは微塵も浮かんでいなかった。
彼女の周囲には、空気の抵抗を無効化する不可視の魔力障壁が張られている。どれほどの速度で空を駆け抜けようと、風が頬を叩くことはなく、髪が乱れることもない。眼下に広がる壮麗な白亜の街並みも、精巧に作られた箱庭の模型のようにしか感じられなかった。
全てが、簡単すぎた。
望めば一瞬で目的地に到達し、思考するだけで障害は消え去る。アイリスの人生には「過程」が存在しなかった。原因と結果の間に横たわるべき、努力や苦労、あるいは摩擦といったものが完全に欠落している。それは極上の絹の上に立っているような、言いようのない空虚さと実在感の喪失を彼女に与え続けていた。
私は今、本当に空を飛んでいるのだろうか。
それとも、世界そのものが私の都合の良いように書き換えられているだけなのだろうか。
そんな哲学的な自問自答すら、彼女にとっては退屈の裏返しに過ぎなかった。学園の高塔を抜け、貴族街へと続く空中回廊の上空に差し掛かったその時である。
唐突に、世界が牙を剥いた。
魔力による予兆など一切なかった。敵対的な呪詛の気配も、魔力障壁が破られるような感覚も皆無だった。ただ、純粋な「暴力」だけが彼女を襲った。
胸の高さ、正確には鎖骨のすぐ下あたりに、鋭く硬い何かが激突した。
魔力障壁を完全にすり抜け、直接物理的な肉体に叩き込まれた圧倒的な衝撃。それはアイリスがこれまでの人生で一度も経験したことのない、純粋な運動エネルギーの塊だった。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。
肺から空気が強制的に搾り出され、視界が激しく明滅した。何が起きたのか理解する間もなく、アイリスの身体は空中で「く」の字に折れ曲がり、進行方向とは全く別のベクトルへと弾き飛ばされた。
完璧に構築されていた多重浮遊陣が、主の意識の混濁によって音を立てて崩壊する。魔力の供給を絶たれた障壁が霧散し、夕暮れの冷たい風が容赦なくアイリスの身体を打ち据えた。
そして、世界で最も古く、最も冷酷な法則である「重力」が、彼女を捕らえた。
落下。
心臓が浮き上がるような浮遊感と、急速に迫りくる地上の景色。
魔力を練ろうとするが、激突の衝撃で呼吸ができず、思考がまとまらない。風が耳元で轟音を立てて唸り、銀色の髪が視界を乱暴に遮る。
落ちる。落ちていく。
このままでは、石畳に激突して死ぬ。
死の恐怖が全身を粟立たせる。しかし、その極限の恐怖の奥底で、アイリスの魂は奇妙な歓喜に震えていた。
痛い。苦しい。風が冷たい。重力が私を引っ張っている。
これが、世界の手応え。これが、私が生きているという事実。魔法という嘘っぱちのクッションを取り払った、冷酷で美しい現実の感触。
地面が目前に迫った。本能が極大の魔力を暴走させる。
アイリスの身体から青白い閃光が爆発的に放たれ、無差別に周囲の空間を押し潰した。精密な術式などではない、ただの魔力の奔流による暴力的なブレーキ。
轟音と共に、アイリスの身体は貴族街の裏通り、陽の当たらない薄暗い路地裏へと叩きつけられた。無茶な魔力の放出によって落下速度こそ殺せたものの、慣性を完全に相殺することはできず、彼女は石畳の上を無様に転がった。
高級な魔導衣が擦り切れ、肌が冷たい石に削られる。口の中に血の味が広がった。
「……あ、は……」
全身の痛みに顔を歪めながら、アイリスは荒い息を吐いた。立ち上がることもできず、ただ路地裏の冷たい地面に横たわっている。しかし、その碧眼だけは、不気味なほどの熱を帯びて上空を見つめていた。
一体、何が私を撃ち落としたのか。
魔法ではない。絶対に魔法ではない。魔法であれば、私の障壁が防いでいたはずだ。
その時、路地の奥から静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。
コツ、コツ、コツ。
魔法で浮遊する者の足音ではない。靴底と石畳が摩擦し、自身の体重を重力に預けながら歩く、この都市では極めて珍しい「物理的な」足音だった。
現れたのは、灰色の作業服を着た同年代の少年だった。
整えられていない黒髪に、常に眠たげな半眼。華やかなこの都市において、周囲の景色から完全に浮き上がっている、ひどく地味で存在感の薄い少年。
テオは、無様に倒れ伏している最高位の貴族令嬢を見下ろし、一切の感情を交えない平坦な声で言った。
「……質量の大きな物体が落下する音が聞こえたので来てみましたが。怪我はありますか」
アイリスは少年の声に反応しようとしたが、その前に、頭上から眩い光が降り注いできた。
空間転移の光。学園の警備を担当する魔導師たちが、アイリスの異常な魔力放出を検知して駆けつけてきたのだ。
「アイリス様! ご無事ですか!」
「急ぎ回復の術式を! 誰か、周辺に結界を張り直せ!」
数人の魔導師たちがアイリスを囲み、慌ただしく呪文を詠唱し始める。淡い緑色の光がアイリスの身体を包み込み、擦り傷や打撲の痛みが急速に引いていく。同時に、別の魔導師たちが特殊な魔道具を取り出し、路地裏の空間を舐め回すように調査し始めた。
彼らは空中に漂う魔力の残滓を測定し、呪詛や攻撃魔法の痕跡を血眼になって探している。
「……敵対的な術式の痕跡はゼロ。残留魔力はアイリス様ご自身のものしか検出されません」
「空間の歪みもなし。遠隔からの狙撃魔法という線も消えたな」
調査を終えた初老の魔導師が、ほっとしたように息を吐き、アイリスに向かって恭しく頭を下げた。
「アイリス様、ご安心ください。襲撃ではありません。これは『魔素の揺らぎ』による突発的な事故です」
魔素の揺らぎ。
それは、原因不明の魔法トラブルが起きた際、魔導師たちが必ず口にする便利な言葉だった。大気中に存在する魔力の源が一時的にバランスを崩し、術式に予期せぬ干渉を与えたという、いわば自然現象への責任転嫁である。
「この区画は古い魔力炉が近く、時折魔素の乱気流が発生いたします。アイリス様の高度な浮遊陣が、その乱気流と不運にも共鳴してしまったのでしょう。すぐに環境管理局に報告し、魔素の安定化を図らせます」
初老の魔導師は、そう結論付けた。彼らにとって、魔法的痕跡がない以上、それは魔法のシステムエラー、すなわち「魔素の揺らぎ」でしかあり得ないのだ。
「……違う」
アイリスは、かすれそうな声で呟いた。
「魔素の揺らぎなどではない。私は、確かに何かと衝突した。鋭くて、硬い何かに……」
「お言葉ですが、アイリス様」
魔導師は困ったように微笑んだ。それは、無知な子供を諭すような、傲慢で同情的な笑みだった。
「この都市の上空に、鳥一羽飛んではおりません。結界によって完全に管理されております。それに、万が一飛来物があったとしても、アイリス様の完璧な魔力障壁を物理的な物体が貫通するなど、論理的に不可能です」
論理的に不可能。魔法という絶対の基準において、彼らの結論は揺るぎなかった。彼らの目には、魔法のパラメーターしか映っていない。現場の空気の匂いも、路地裏の温度も、石畳の削れた跡も、彼らの意識には一ミリも入っていなかった。
アイリスは絶望的な孤独を感じた。
誰も、私の感じた「現実」を信じてくれない。誰も、この出来事の真実を見ようとしない。世界はまた、便利な魔法の嘘で塗り固められていく。
魔導師たちに抱き起こされ、転移魔法の光に包まれる直前。
アイリスの視線が、路地の入り口に佇む灰色の少年に向いた。
少年――テオは、騒ぎ立てる魔導師たちを完全に無視し、路地の壁面に近づいていた。そして、半眼をわずかに見開き、壁の煉瓦に刻まれた微小な傷をじっと観察している。彼の視線は、魔力などではなく、ただ純粋な「物質の痕跡」だけを追っていた。
転移の光が視界を白く染める中、アイリスは確かに見た。
テオが、彼女の靴底に付着した泥と、壁の不自然な傷跡を交互に見比べ、何かを計算するように小さく頷いたのを。
彼だけが、嘘を見ていない。
直感的な確信が、アイリスの胸に深く刻み込まれたまま、彼女は現場から強制的に退出させられた。
路地裏には、冷たい夜風と、一人の絶縁体だけが残された。
テオは壁の傷を指先でなぞり、ゆっくりと上空を見上げる。彼の目には、魔導師たちが見落とした、空間を横切る無機質な「物理の線」が、確かな輪郭を持って見え始めていた。
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