テセウスの心臓

第11話 テセウスの心臓①

 その男は、雨も降っていないのに黒い傘を差し、事務所の前に立っていた。

 鈍色の雲に覆われた空の下、『二律背反』の古びた看板を、品定めするように細い指で規則正しく叩く。コン、コン、と響く乾いた音は、まるで誰かの最期を告げる秒針のようだった。

 音もなく扉が開いたのは、律が磨き上げたティーカップを棚の定位置に戻した、まさにその瞬間だった。


「……おや。予約のないお客様は困りますね。今の僕は、最高級のハンバーグを焼くための準備で忙しいんだ」

 律はエプロン姿のまま、穏やかな、しかし一切の隙がない笑顔で来客を仰ぎ見た。その指先には、まだ微かにナツメグの香りが残っている。


「相変わらずだね、律。論理の檻に閉じこもって、おままごとのお肉屋さんかい?」

 男が傘を閉じると、そこには律と同年代、しかし律とは対極にある「熱」を帯びた瞳を持つ青年がいた。仕立ての良いスーツを崩して着こなし、首筋からは不気味な心電図のような刺青が、喉元を這い上がるように覗いている。


「堂々(どうどう)……。どうしてここがわかった」

 律の表情から、いつもの余裕が消えた。その声は低く、地を這うような警戒を孕んでいる。

 ソファで丸まって昼寝をしていた累が、弾かれたように起き上がった。背中の毛を逆立て、金色の瞳を細める。その喉からは、かつてないほど野蛮な唸り声が漏れていた。


「……おい、律。こいつ、なんなんだよ。人間じゃねえ。……いや、人間なんだけど、中身が全部『借り物』の匂いがしやがる。ドブ川に流された他人の記憶を、無理やり身体に詰め込んだような、反吐が出る匂いだ!」


「流石はワニの化身。鼻が利くね」

 堂々は累の威嚇を鼻で笑い、律に近づくと、その胸元――心臓のあたりに細い指を突きつけた。

「律。君のその『器』は、今日も正しく時を刻んでいるかい? 定義……を上書きしすぎて、自分がもともと『何』だったか、忘れてやしないかと思ってね」


「これ以上……その話をするなら、相応の報酬を支払ってもらおうか」

 律は冷淡にその指を払い、銀縁の眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。その瞬間、彼の周囲の温度が劇的に下がる。レンズの向こう側の瞳は、人としての温情をパージした、純粋な「論理の化身」のそれへと切り替わった。


「報酬なら用意してある。……君の大好物の『矛盾』だよ」

 堂々がテーブルに放り出したのは、一枚の写真だった。

 そこに写っていたのは、ある老舗の時計店。だが、異様なのはその光景だ。店内の壁に並んだ時計は、文字盤の数字が重力に逆らうようにバラバラに崩れ落ち、針だけが何も存在しない虚空を空しく刻んでいる。


「『テセウスの船』というパラドックスのことは当然知っているよね? ある船の古い部品をすべて新しいものに交換したとき、果たしてそれは『元の船』と言えるのか。……今、この街でまさにそれが起きているんだ。人間が、自分を構成する『記憶』を一つずつ、自覚のないまま他人のものと入れ替えられ、自分が誰かわからなくなる……そんなパンデミックだ」


「……個人の怨恨による呪いじゃない。世界の記述そのものが、定義のバグを起こしているというのか」

 律の眼鏡が、不気味な光を反射した。


「ああ。そして、その『最初の部品(オリジナル)』が、君の過去に関係しているとしたら……どうする?」


 堂々は嘲笑を残し、再び傘を開いた。

「依頼だ、解呪師。君という存在が、偽物のパーツの寄せ集めになって完全に崩壊してしまう前に……その意識の『正解』を見つけてみろ」


 男が去った後、事務所には重苦しい沈黙が、重油のように立ち込めた。

 累がおずおずと、律のエプロンの裾を引く。

「……なぁ、律。あいつの言ったこと、本当か? オマエ、まさか……」


 律は答えず、ただ自分の左胸を、確かめるように強く押さえた。

 指先に伝わる鼓動は、一定のリズムを刻んでいる。だが、律はその規則正しさに、得体の知れない「不協和音」を感じていた。

 

 時折、眼鏡のレンズが曇るように、自分の中に自分ではない「誰か」の穏やかな感情が混ざることがある。仕事モードの冷徹な思考をノイズのように乱す、あの温厚で、ひどく無垢な感触。

 律はそれを、ただの計算エラーとして処理してきた。しかし、堂々の言葉は、そのエラーこそが「真実」ではないかと、律の足元を揺さぶる。


「……なんでもない。最高級のハンバーグを焼くには、まずは適切な解凍からだ。……調査に行こう、累。手遅れになる前に」

 律は眼鏡を外し、クロスで丁寧に拭いた。レンズを外した瞬間、彼の表情に一瞬だけ、いつもの彼からは想像もつかないほど「頼りなげで、優しい微笑」が浮かび、すぐに消えた。

 その変化を、累は見逃さなかった。

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