潜入編

第25話 私と翠と瑠璃と

 オレンジ色に染まった空に、カラスの鳴き声が響く。


 翠と瑠璃に連れられて辿り着いた先――そこにそびえていたのは、巨大な屋敷だった。


 確かに神楽家も広い。だが霊媒師は翔たちの祖父、陽明さんただ一人だ。彼は外観や威厳に金をかけるような人ではないし、むしろ過度な威圧感を嫌う。だから神楽家は歴史のわりに質素で、どこか温かみのある佇まいだった。


 それに比べて、天乃家は違う。

 重厚な門構え、長く続く石畳、空を切り取るような大屋根。夕焼けに染められたその姿は、荘厳という言葉がよく似合った。


 こんな厳かな豪邸は、初めて見る。


 思わず目を見開いていると、隣で瑠璃が小さく笑った。


「緊張しているのかしら、可愛いわね。確かに家の見た目は少し怖いかもしれないけれど、ただ古いだけよ。安心して」


 薄紅色の唇がやわらかく弧を描く。


 あまり会話はしていなかったが、改めて見ると瑠璃は本当に美しい。

 よく似合うショートヘアに、吸い込まれそうなほど深い瑠璃色の瞳。その名の通りの色彩は、どこか神秘的ですらあった。


 当初、化け狐を支持するような発言を聞いたときには、少なからず敵対心を抱いた。

 だが実際の彼女は朗らかで、物腰も柔らかく、掴みどころのない性格もまた魅力的だ。


 翔が惚れるのも、無理はない。

 そう心の中で頷いた、その瞬間――


「……?」


 胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


 真夏の風が、妙に冷たい。


 今の感情は、何だったのだろうか。今まで、抱いたことのない感覚。

 それは焦りか、それとも――。

 答えの出ない違和感に首を傾げていると、翠が口を開いた。


「一度、当主の部屋に向かおうか。……当主の部屋とは言いつつも、僕らではなく化け狐が居座っているわけだが」


 ――化け狐。

 その名に拳を握って、余計な思考が全て消え去る。


 そうだ。この屋敷に、奴がいる。


 三十年前、百鬼夜行を引き起こした元凶。そして再びそれを企て、私たちを巻き込もうとしている存在。


 改めて屋敷を見上げると、緊張が全身を走った。

 私は無意識に拳を握る。


 だが、同時に疑問が浮かぶ。


「……どうして、当主の部屋に行くんだ? 化け狐のいる所に私を連れていくというのは……無謀ではないか」


 翠は言っていたはずだ。私を化け狐に渡すつもりはない、と。


 私は霊媒師両家の架け橋であり、彼らの得た情報を蓄える役目。百鬼夜行の主戦力となり得る私が、敵の目前に姿を晒すのはあまりにも危険だ。


 ――翠たちが私たちを騙したわけでもない限り、そんな真似はしない。


 その考えに至った瞬間、私は一歩飛び退き、警戒態勢を取った。


 しかし瑠璃は慌てる様子もなく、むしろ私を落ち着かせるような微笑みを浮かべる。


「まぁ、貴女たちを騙したわけではないのよ。誤解させてしまってごめんなさいね。私たちが貴女を化け狐に売ることは、断じてないわ」


「とはいえ、全く嘘をついていないというのもまた嘘になるがね。僕らのプランを包み隠さず話せば、翔が絶対に反対するだろうから」


 翠は小さくため息をつき、こちらに歩み寄ることなく、その場で私に向き直る。


「悪いが、君には一時的に化け狐の懐に入ってもらう」


「……っ!? どういうつもりだ……?」


「君の存在を隠したまま僕らが帰って、『神楽家は尻尾を巻いて逃げた』と報告するのは不自然すぎる。すぐに嘘だと見抜かれるだろうね。だから成果として、君を連れ帰ったと伝える必要がある」


「だから、貴女のことはしっかりと紹介させていただくわ。その上で貴女には化け狐の作戦に乗っかって、私たちでは得られない詳細な情報を聞き出してほしいのよ」


 一理はある。だが、それだけでは納得できない。


「化け狐は、私を手に入れることが目的のはずだ。私が奴の手中に入れば、百鬼夜行のためのピースが揃ってしまうのではないのか」


 睨むように問い返すと、翠は静かに目を細めた。


「安心しなよ。奴の目的は君を手に入れることだけじゃない。君をはじめとした強力な妖怪を敵に回さないこと、それも狙いだ」


 瑠璃が柔らかく補足する。


「だから貴女が手に入ったからといって、すぐ百鬼夜行を起こすとは思えないわ。むしろ貴女という仲間を得てからが本番。貴女を利用して妖怪を集める……それが彼女の本当の計画だと、私たちは考えているの」


 その言葉に、嘘は感じられなかった。


 しばし迷った末、私はゆっくりと警戒を解く。


「……そうか。疑って、申し訳なかった」


「はっ、そのくらい警戒心がないと、スパイとして送り込めないよ」


「えぇ。それに……白澤さんは、化け狐の前でその姿を見せたことはないのでしょう? それなら、そもそも白澤さんだと気づかれない可能性もあるわ」


 瑠璃の言う通りだ。三十年前、私は人間の姿になることはなかった。この姿は、封印から解けて以降、社会の中で生きるために身につけたものだ。


「まだ聞きたいこともあるでしょうけれど、ひとまず家に入りましょう。お客様を外の風にさらしていては、私たちの面目が立たないわ」


 そう言って歩き出した瑠璃の背を追い、私は荘厳な門をくぐる。


 化け狐が待つ屋敷へ、私は、足を進めた。

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