クルージング SIDE麻生花純
「え……」
こ、声が出ない。
いろんな意味で。
いや、と、とりあえず数を数えると……三重の意味で。
一。
「何ここ」
ぷかりさん橋、というらしい。神奈川県民なのに初めて聞いた。そりゃ、私は藤沢の方の人間なので海と言えば湘南、横浜にはむしろ対抗心があるくらいなので仕方ないと言えば仕方ないが……。
青い海の中に浮かんだ、木のおうち……なんて言い方は、メルヘンが過ぎるか。
まぁとにかく、海原にぽつんと建った三角屋根の塔。その下に続くのは緑の屋根のおしゃれな二階建ての建物。
さん橋、の名の通りその建物の周囲を桟橋が囲っていて、いくつかのクルーズ船が停泊している。分かりやすく言うなら、木製の半島の周りを桟橋が囲っている感じ。何だかここだけ急に、外国に来たみたいだ。
「何これ」
で、秀平は私に「クルージングデート」を提案していた。
てっきり私は、遊覧船か何かに乗って東京湾を回遊するのかと思っていたのだが、しかし目の前にある船は。
大富豪が乗り回していそうな、白いボディにしゅっと尖った船首のクルージングボート。近くに船長さんらしき中年の男性と、スタッフらしき制服姿の女性が二人、いる。
しかしどう考えてもそれは少人数用で、とても遊覧船のような、十数名近い人間が乗り合わせて使うようなものじゃない。
周りには乗り合わせ式の大型中型の遊覧船があるのに、秀平が私を連れてきたのはこの小型船の前。
見た感じ、私たち専用だ。
「何それ」
そして、秀平から提案されたのは。
「船に乗って、ぐるっと海を回って、そしてこの桟橋にあるカフェバーでランチ」
ええ……。
ご、豪華が過ぎる。
桟橋、船、カフェバー。ここでできる豪遊の限りを尽くすようなプランだ。
私はそのお値段を推測してちょっと背筋が冷えた。
大学の教養科目で少しだけ触れた、フェルミ推定のスキルを使って概算してみる。
……どう少なく見積もっても十万以上はかかっている……。
いくらかかったの、とは聞けない。いろいろな意味で。
「よしゃ、行くか!」
と、秀平が私の手を引く。お姫様よろしく、丁寧に、優しく。
「お待ちしておりました」
船長さんらしき男性がぺこりと一礼する。続いて、スタッフさんらしき女性たちも。秀平も一礼する。
「本日はよろしくお願いします」
丁寧な挨拶。
秀平、育ちがいい。
*
「はえー……」
こ、声が出ないというか。
いや、出てはいるのだが。
何だか魂が抜けたみたいな、風船から空気が抜けたみたいな声しか出ない。
船内。
日の当たる室内にはソファと低めのテーブルが用意されていて、そこにちょっとした料理が並べられていた。エビの……何かと、バケットにシーチキンみたいなやつを乗せた……何かと。
おまけにドリンク。シャンパングラスに、薄桃色の透明な液体が入っている。
「アルコールじゃないから安心しろ」
なんて秀平がグラスを手に持つ。
「俺たちまだ酒は飲めねぇからな」
はい、乾杯。
秀平に勧められるがままに、グラスを重ねる。それから、一口。美味しい。
天気がいい。窓から見える海は絶景だった。遠い水平線の彼方まで見渡せそうな、本当に素晴らしい天気。私はさっきから「はえー……」しか言っていないのだが、本当にそんな言葉しか出てこないくらい、美しい。
「ちょっと上行ってみようぜ!」
秀平が私の手を取る。
「外の高いところから海を見るのも気持ちいいって、きっと!」
と、秀平はその勢いのまま、コート掛けにあった私のコートを手に取り、私に羽織らせた。するすると袖を通した後になって、気づく。
い、いつの間にそんなエスコートが上手く……!
しかしそんな驚きもまだ新鮮なうちに、私は秀平に手を取られて階段を上っていた。
二階のデッキ。秀平が言う通り、高所から見渡す海は、やはり、驚くほど広いし、綺麗!
「はぁ……」
思わずため息が漏れる。空の青と海の青が重なる境界線が、どこまでも遠くて、でもそれは目の前にあって、揺れる波、吹きつけてくる風が心を躍らせて、しかも隣に秀平がいて。
幸せだった。幸せだと思ってしまった。本当は、こんな彼女失格の女、秀平から幸せにしてもらう資格なんてないのに、でも、どうしてこんなに。
「気に入ってくれたか?」
秀平が、ぎゅっと私の肩を抱き寄せてくれる。
その距離の近さがどうにもくすぐったくて、私は思わず陸地の方を指さし、「あっ、何あれ綺麗な建物!」と、海岸沿いに建っている奇妙な……紫色と茶色を混ぜたような変な色合いの壁をした、四角い建物を示した。
すると秀平が低い声でつぶやいた。
「ありゃラブホだな」
「らららっ……!」
「最近できたやつだぜ」
「どっ、どうしてそんなこと……」
「そりゃいつか使うかもしれねーし……」
「そっ!」
思わず声がひっくり返る。
「そ、そういうのはっ、結婚するまでナシだからっ!」
と、口にしてから後悔する。
――浮気されるかもよ?
縁の声が蘇る。
――秀平くん、モテそうだし。
テーブルの上に積まれたチョコ。
そうだ。秀平は、何も私じゃなくても……。
「……秀平はさ」
思わず、疑念が声の形をとる。
「秀平はさ、私に……」
彼がきょとんとした顔をする。
「秀平は、私に手を出さなくても、平気なわけ?」
自分で言っていておかしいと思う。そういうのはナシだと言った後に、そういうのしなくて平気なのかと問う。まったく馬鹿みたいな話だ。でも、訊かずにはいられなかった。秀平の本心を、気持ちを、知りたかった。
すると秀平がつぶやいた。
「今までの俺だったら、辛かったかもな」
と、私と肩を並べる秀平。
「でもさ、俺、ちゃんと花純と向き合いたいから」
彼の横顔。
真っ直ぐ、海の向こうを見据えている。
「花純のこと、大切にしたいから」
……嘘だ、私また泣きそ……。
「なーんて、誰かさんの真面目が移ったのかもな!」
って、言わせるなよこんなこと! と秀平がおどける。
照れ笑いをする秀平。その顔を見て、私は決意した。
秀平の顎に手を寄せる。
指を這わせる。
それから私はそっと彼に顔を近づけると、優しく、柔らかく、キスをした。秀平が「むっ」と息を止めた。
いつも、なら。
これでも付き合い始めてもうすぐで一年だ。キスだって何回もしたことがある。
いつもならこれで終わる。ここだけで終わる。唇を重ねて、呼吸を止めて、お互いを感じて、それで終わる。
でも、この日はこれで終わらせたくなかった。
私は唇を少しだけ開いた。
「んっ……!」
秀平が驚いた。私はそれを舌先で感じた。唇を離すと、私はため息をついて秀平を見つめた。秀平が笑った。
「……へぇ、俺の知るお前はそんなことする女じゃなかったんだけどなぁ?」
何があった? なんて訊いてくる秀平に私は返した。
「……さぁ? 誰かさんの不真面目が移ったんじゃない?」
「言うじゃねぇか」
秀平は不敵に笑った。
それから、私の顎に手を伸ばした。
「よし、このままやられっぱなしっつーわけにもいかねーから俺もひとつ……」
「きゃあーっ! 何すんのよヘンタイ!」
「お前が言うんかーい!」
*
デッキでわちゃわちゃした私たちは、ちょっと冷えてきたね、と室内に戻った。
するとそこでは女性スタッフたちがお皿とグラスを片づけている最中で、私は思わず「あっ、ありがとうございます」なんてお礼を言った。
するとそれが呼び水になったのか、スタッフの女性が「今日はデートですか?」と訊いてきた。私が照れていると秀平が「バレンタインデーデートでーす」なんておちゃらけたので、私は「もうっ」と秀平を小突いた。
すると女性スタッフが笑いながら訊いてくれた。
「よろしければお写真撮りましょうか?」
いいんですか! なんて秀平が飛びつく。彼はすぐさまスマホを取り出すと、スタッフの人に渡した。
「ほら花純、そのソファに座れって!」
言われるままに私はソファに腰を下ろす。「えっ? えっ?」なんて言っている間、あれよこれよという内にスタッフさんが「はい、チーズ」と言い始めた。
しかし秀平は隣にいない。
え? ツーショットじゃ……。
と思った時だった。
「ちーず」
ソファの、背後。
上から私を、抱きすくめるような形で。
秀平が私の前に手を回してきて、そっと抱きしめてきた。
私はびっくりして秀平の腕を取る。
シャッターが押されたのは、その時だった。
きっと世界一間抜けな写真だ……と、私は恥ずかしくなった。
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