第13話 炭酸(2)

 七月を目前にしてぎらぎら照りつける太陽の下、庭の大きな幹の緑陰で、千歳は透明なケースに頭を突っこんでいた。

 思わず「どうした」と声が出る。びしょ濡れの頭で千歳が門を振り返った。汗で濡れる髪の陰が作るコントラストが千歳の頬の輪郭を際立たせた。


「常盤、おか、あ。ゲージを、片付けようと思って」


 おか、って言った。


「ただいま」

「ちょっと待て。間違えた」


 何事もなかったように続けようとした会話は、俺がスルーすればいいなと思ってだろうが、その言い間違いはアリ。

 楽しくなった俺に、やや不満げに千歳は眉根を寄せた。


 今日は期末テストの中休みだ、というか日曜日だ。日曜日は休むもんだ。千歳はハムスターのゲージを洗っていた。ゲージは想像の二倍以上大きくて、側面をこする千歳がすっぽり入れるくらいだった。

 あつしがいなくなって一ケ月経つ。千歳は、ようやく区切りにしたらしい。


 こんな暑い日にとか、期末テストの中日にやらなくてもとか、余計なお世話だと思っても口に出る。千歳は、気分転換って必要だよな、と答えた。それは、わかる。やる気スイッチはオンオフある。おひさまの下で健康的な肉体労働、これがスイッチなんて、俺の勉強前ルーティーンに比べるのも申し訳なくなるくらい、ほんと健全なやつだ。


 ひなたの庭の石灯篭の足元に広げた新聞には、すでに洗い終わった何かのパーツが並べられている。納屋の横の水場は木陰になっている。納屋の横に近づいていく。千歳は作業に戻っていて俺を振り向きもしない。薄っぺらい背中を向けられていることが少々面白くなく、何の脈絡もなく水道の蛇口に手をかざす。

 ぶわっと水が平面に広がった。


「つめたっ」


 流しっぱなしの蛇口の水が千歳に直撃する。外の水道は井戸水で、外気温に左右されないとあって冷たい。すでに汗だくだった千歳の髪だけれど、水を浴びてべっしょり滴った。

 予想外に水圧が強かった。千歳は頭をぶるぶる振った。水滴が飛んでくる。


「やりすぎちゃった」

「まず、ごめん、だ」

「シャワーしてきなよ。俺、続き洗っておくから」


 ごめんごめん、と付け加えると、千歳は短く息をついて立ち上がり、もうあとはすすぐだけだから、と指示しながら玄関に向かう。俺はひらひら手を振った。


 色の付いてないプラスチックのホイールを水で洗い流す。あつしが走って回していたホイールか。

 栓を閉めるときゅ、と鳴く。石灯籠の横を通りすぎて、葉っぱになったつつじの繁みの前にしゃがんだ。一本の消えた線香の隣、少し盛り上がった土にきれいになったホイールを置く。

 お前のご主人、ちょっと元気になったみたいだな。





 たった数分の外作業で汗だくになってしまった。台所はエアコンが付いていた。千歳は自分の頭を拭きながら、俺にもタオルを投げて寄こした。千歳の濡れた頭を見て言う。


「ドライヤーしようか」

「これだけ暑いし、すぐに乾くだろ、って」


 自分でできるし、と続いた語尾は小さい。千歳の髪、柔らかくて好きなんだけど。残念。

 千歳は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出した。ちゃんと冷やしておくことができるようになったんだな、と千歳の成長を感じる。

 俺は肩に掛けていた鞄を椅子に下ろした。


「昼、食べた?」

「まだ」

「クラントから差し入れあるんだけど」


 取り出した紙袋には薄い茶色のワックスペーパーに包まれた四角。中身はサンドイッチだ。

 クラントの「毎日お邪魔してすみません」との伝言付きで。

 ダイニングテーブルにお茶を運んできた千歳は、ああ、と小さく反応した。


「クラントさんと昨日、学校ですれ違ったよ。学年研修会に来たって」


 あいつ。

 そんなこと一言も聞いていない。

 昨日の午後は学校で、進学についての保護者向けの説明会があった。美登里さんはイギリス出張中で、一緒に出張していたクラントだけが、前日に戻ってきていた。

 出席するとは聞いていたけれど、俺とは学校で会っていないのに、クラントの性格からするとわざわざ千歳に会いにいったように思える。俺の知らないところで。

 俺のむっとした顔に気付いた千歳が苦笑した。


「たいした話はしていないよ。あれから体調崩していないかとか、体育大会の写真はあるかとか」


 いらんことを千歳に吹き込んでいないのならひと安心だ。だけど、ちょっと気になる。

 クラント、体育大会、ほんとに見たかったのかな。やだよって一刀両断してしまったけれど、悪いことをしたのかもしれない。


 分厚いサンドイッチの包みはもう半分に切れていて、断面から色鮮やかな具材があふれそうになった。サーモンとクリームチーズ、もうひとつのほうは半熟たまご。千歳に手渡しすると、目を見張った。これをほおばるには、千歳のあごがはずれる。


「豪華。急にお腹空いてきた」

「俺も。朝食ってないし」

「僕も。昨日のお茶漬け以来」


 千歳の夕飯がお茶漬け。

 顔を見て、疑問に眉根を寄せると千歳は小首をかしげた。


「常盤が昼に作っていくから、今週、夜コンビニ行ってないだろ。昨日は昼に炊いたご飯を夜に食べたんだよ」

「昨日の昼って。生姜焼きは全部食べたじゃん」


 だから残っていたご飯だけで済ませてしまった。なんという適当さ。


「俺今日から晩ご飯の分も作っていくわ」

「それは」

「心配なんだけど」


 口を突いて出た言葉に、千歳は息を吸い込んで止まった。その顔に、俺までぎくりとして動きを止める。

 心配、している。

 心臓がどきんと鳴った。

 自分で言ったことだけど、そうなんだな、と反芻する。ここのところ千歳の周りにいる。千歳のことが気になってしょうがないのは、そういうことなのだろう。

 でかい眼鏡の奥で驚いた顔のまま、千歳はまばたきを忘れていて、力の抜けた口許が薄く開く。サンドイッチを持つ指先がかすかにふるえている。伸びっぱなしの適当に拭いた髪が首筋に掛かっていて。

 その髪に触りたいと思うのも、心配だから。

 風邪をひいてこないだみたいに倒れたらどうするんだ、あのときみたいに、あのときはクラントに助けられて、クラントが千歳を抱えて運んで、いらっとして。


 ——心配?


 千歳は長く、ふーっと溜息をついた。


「……そういうのは彼女に言うんだよ」


 彼女はいない、と口を開きかけた俺の前で千歳はがたんと立ち上がった。


「サンドイッチもう半分に切ろう」


 かぶりつけそうにないからと台所に向かう背に、俺はおう、とだけ、答えた。


 



 それから午後は全然集中できなくて、でも明日テストの化学の課題だけなんとか終わらせた。

 心拍数が高めなままの俺の前で、千歳はいつもと変わらず猫背でノートにペンを走らせ、ときどきずり落ちる眼鏡をひとさし指の関節で持ち上げる。

 千歳は四時に病院に出掛ける。もやもやするが、今日はなんだか俺が全然だめなので、帰りたくないのだけれどこれで帰ろうと思う。そう言うと千歳は、なんだそれ、と笑った。晩ごはんと明日の朝ごはんがいると言うので、いつものコンビニまで一緒に行った。千歳はおにぎり二個と総菜パンをひとつ買う。夕飯は、今日はおにぎりらしい。

 俺は千歳と同じわかめのおにぎりと、メロンソーダのペットボトルを買って、ちょうど来たバスに乗って帰った。


 帰りたくなかった。


 帰りたくなかったよな、心の中で繰り返す。これが何の感情なのかわからないのか、わからないふりなのかも、これ以上考えてはいけなくて、千歳の顔を思い出して胸が詰まった。


 自宅のキッチンはだだっぴろく、大理石の床に天井のペンダントライトのオレンジ色の光が反射していた。シンクは千歳の家とは違ってアイランド型で、ダイニングテーブルはあるが、俺の定位置はシンクの向こうに壁に向かって設置されているカウンター。目の前にはおにぎりとメロンソーダのペットボトル。オートマチックにおにぎりのラップを外す。


 口の中でおにぎりとメロンソーダが混ざって、違和感に冷蔵庫からお茶のボトルを取り出した。

 少し離れた場所から見るペットボトルは、青碧がマーブルを描いて、炭酸水にぷつり、ぷつりと白い気泡が生まれては消えた。


 心配、することはない。千歳はあまり食べないし、すぐ面倒がるけど、食べ忘れて全然食べない、なんてことはない。さっきおにぎりを買っていたし、今日は冷蔵庫にお茶も冷やしてあった。

 しょっぱいはずのわかめのおにぎりは味がしなくて、結露するグラスの表面を眺めた。


 キッチンは詩真のシッターがすっきりと片付けていて、鍋も出ていないし調味料は整然と並べられている。中庭に出入りできる窓から見える植え込みの上には、地上から照らされて赤っぽく輝く雲が夜空にたなびいていた。立ち上がり、リビングのソファにスマホを投げて、使いおわったグラスを持つ。

 皿やコップがシンクに置き去りにされていることもなくて、俺は自分の使ったグラスだけを洗う。


 ジリリィンと電子音がした。ソファの上から、篭った音。


「——千歳」


 ベージュ色の皮のソファで鳴り続ける着信音に手を伸ばして、驚きが口から零れた。画面には千歳の名前が表示されている。体調が悪かった日にも電話を寄越さなかった千歳からの着信は、幻か。


「どうした」


 ちがう、焦りすぎた。もしもしを飛ばしてしまった。スワイプした指があたふたと振れる。


『常盤、あの……ごめん、なんで電話したんだろ』


 落ち着け、千歳。お前まで焦る声に動揺してしまうから。

 千歳は小さくあはは、と笑った。


『常盤、ばあちゃん、退院するって』

「マジで。おめでとう」


 千歳は素直にありがとうと言った。電話の向こうで車のエンジン音や話し声がする。外なのか。


『あ、うん。まだ病院にいて。なんだろう、こんな慌てなくてよかったのに、なんで常盤に電話したんだろ、ごめん』


 まごつきながらも嬉しそうに千歳が話す。突然だけど明日の午前に退院できることになった。突然でも何でも吉報だし、千歳の声が明るくて俺はほっとした。


「もう大丈夫ってこと? 良かったじゃん」


 うん、そう。ありがとう。こんなことで電話してごめん——千歳は短く話を終わらせて、電話を切った。

 暗くなった画面を見つめて、ふっと息が漏れる。ソファにごろんと転がった。

 唇が震える。笑えて来る。じわじわと、胸の中でくすぐったいものが膨らむ。あれから病院に行ってばあちゃんの退院の話を聞いて、俺に一番に電話してきたってことだ。

 はははと声を上げると、黒い画面に笑った顔の自分が映った。


 すん、と表情を素に戻す。

 起き上がって、カウンターに置き去りだったメロンソーダのペットボトルをひとくち飲んだ。この辺じゃ、あのコンビニにしか置いていない、メロンソーダ。

 ばあちゃんが帰ってきたら千歳のコンビニ生活も終わりだ。千歳がご飯をちゃんと食べられる。それはとてもいいことで。

 どうしよう。

 さびしい。


 ジリリリと鳴ってまた携帯が光った。


「えっ、千歳——」


 電話を取るとすぐに、何度もごめん、と千歳が謝る。ぜんぜん悪くないのでごめんの必要もないけれど、そう伝える間も置かず早口で告げられる。


『常盤、明後日の夜、空いてるか』


 強引なデートのお誘いのような流れで、千歳は「ばあちゃんが」と強調してから、夕飯一緒にどうですかと尋ねた。




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スロウリファミリ 霙座 @mizoreza

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