第三章
同床異夢
白慧心は落ちる夕日を眺めていた。屋敷の瓦屋根越しに、太陽が沈んでいこうとしている。晩秋の空は、美しい紅に燃えていた。
「師兄! もう天界から戻っていたのか」
呼ばれた声に振り返ると、たった今帰宅したのだろうか。黒い修道着姿の趙朱燿がそこに立っていた。鼻の先を土埃の香りが掠める。どうやらしっかりと鍛錬をこなしてきたようだ。
豹のように鍛え抜かれた身体、艶のある長い赤髪。切れ上がった深紅の目と高い鼻梁で構成された美貌は、他を圧倒する迫力があった。
白慧心は中庭に置かれた椅子に腰かけたまま、軽く片手を上げて応えた。
「お帰り、朱燿。里はどうだった? こってり絞られたか?」
「今更、絞られるようなへまなどすると思うか? この私が」
自信ありげに、にやりと笑う青年に黙って肩を竦めてみせる。白慧心の隣に座った弟弟子は、訝しげに兄弟子の背中を覗き込んできた。
「あんた、髪に何をつけてるんだ? 笹の葉か?」
「ああ……? いや、何。あの竹林に、また竹の実が百四十年ぶりに生ったと聞いてな。さっき取ってきた。その時に、葉が付いたのかも」
白慧心は自身の背中を探ってみた。指先に触れたのは背中の半ばまで伸びた毛先の感触だけで、葉がどこにあるか分からない。弟弟子はしばらくその様子を見守っていたが、不器用な兄弟子を見かねたのか、苛ついたように手を伸ばしてきた。
「そこじゃない。……じっとしていろ」
「お! 助かる。ありがとうな」
どうやら、竹の葉を取ってくれるつもりらしい。立ち上がった趙朱燿に、背中を任せる。軽く毛先に触れられているのを感じながら、白慧心は話しかけた。
「竹の実と言えばさ。俺が昔、竹の実を取ってきたこと覚えてるか? あれから四百八十年経つのか。あの頃は竹の実を好むのは朱雀ではなくて、鳳凰だって知らなかったな」
「……師兄、気づいているか?」
「何にだ?」
振り返ると、なんとも言えない顔をしている。人外の美貌に浮かべられているのは、呆れたような、辟易したような表情だ。
「この会話、竹の実が生るたびにしているぞ。もう三回目だ。まさか、もう耄碌したのか?」
「だ、誰がじじいだ! たった二月しか変わらんだろ!」
憤慨した白慧心が声を荒げると、弟弟子は楽しそうに声を出して笑った。
互いの生辰(誕生日)を知ってから、趙朱燿はこうやって兄弟子をからかうようになった。負けじと白慧心は弟弟子を若造扱いするが、すると自身が年寄だと認めるようで腑に落ちない。
腹立ちのあまり、白い手に握られている自分の髪を取り返そうとすると、趙朱燿は「まだだ」と止めてきた。
「もう、竹の葉は取れただろ」
「……まだ縺れている。自分で気にならないのか? 髪は霊力の源だ。梳いてやるから大人しく前を向いていろ」
「ええー。もう、めんどくさいなあ。お前の櫛を貸してくれたら、自分で梳くよ」
「…………」
訴えを無視した趙朱燿は、懐から櫛を取り出し、黙って白慧心の髪を梳き始めた。思春期以降、弟弟子は持ち物に触られるのを断固拒否するようになった。
まだ小峻だったころの趙朱燿に「お母さんが恋しいのか。一緒に寝るか?」と、提案した事を、相当根に持っているようだ。弟弟子の持ち物から、毎晩、母親を呼んで泣いていた姿を読み取ったのがよほど腹に据えかねたらしい。
(しかし、五百年近く前のことを未だに恨みに思ってるとは。なんて執着の強いやつなんだ)
白慧心が内心で毒づいていると、趙朱燿は気付いているのかいないのか。梳いている髪を軽く引いてきた。
「いたた。おいおい、丁寧にやってくれよ」
「我慢しろ。あんたの髪は、なぜ毛先だけ癖があるんだ? 真ん中の部分は真っ直ぐなのに」
「……直毛のお前には、くせ毛の苦労はわかるまい」
朱雀の赤毛は人外ゆえに強靭にできているのか。たとえ寝起き直後でも、真っ直ぐで艶があった。しばらく髪を梳く音が夕方の中庭に微かに響く。やがて趙朱燿は、重々しく口を開いた。
「師匠から聞いたと思うが……。朱雀の里に帰ることにした。向こうで修行を続けるつもりだ」
山々が落日で赤く染まるのを眺めているふりをした。積極的に聞きたい話ではなかった。
「……聞いた。向こうの方が武人の鍛錬もしやすいだろうと、俺も思う。里の霊力も、お前に合っているのだろう?」
「そうだな。
朱雀の里は南の果て、聖域『南離境』に存在している。人界と天界の境界、常に雲海に包まれた断崖絶壁の上の巨大な平原に、朱雀一族の都はあった。冬でも暖かく、霊気で満ちているそうだが、朱雀の一族と力の強い神仙以外は里を訪れることはできない。
弟弟子は週に三日。半刻かけて里に通い、鍛錬を積んでいる。しかし、朱雀の翼なら半刻でも生身の人間であれば旅程に何ヶ月もかかる。白慧心は想像して気が沈んだ。神仙になるまで、弟弟子には会えないのだ。
「この場所――師匠の霊山では駄目か? お前は十分、才に溢れている。わずか二百五十年で元嬰まで到達した位だ」
「……だがあんたは、もう化神じゃないか。五百年弱でそこまで到達した人間は前例が無いと、師匠も褒めていた。師兄はここ十年程、天界で師匠を手伝っている……でも私は」
言葉を止めた趙朱燿に、思わず振り返る。壮麗な顔立ちに溢れる口惜しさは、見るもの全ての心をかき乱し、同情を誘わずにいられないほどだった。
「私は、あんたと並び立ちたい」
白慧心は自身を恥じた。身内と離れる心細い気持ちばかりが先行し、弟弟子の気持ちを考えていなかった。
二人は二十代前半で同時に金丹に到達したが、その後はずっと白慧心が一歩先を行く形で修行を突破してきた。霊獣である趙朱燿が、人間の白慧心に追い抜かされていくのを、気にしていないわけがなかった。
白慧心はようやく椅子から立ち上がった。夕日は沈んだ。空は薄紫から藍に変わりゆく。気の早い星々が小さく瞬いていた。体ごと振り返った白慧心は、自分にも言い聞かせるように、弟弟子に誓った。
「わかった。俺はこの師匠の屋敷で修行を続ける。……ここで、お前を待っている。互いに神仙となり、いつか天界の両翼として並び立とう」
◆◆◆
鈴鈴の両親が営む
「
「落ち着け。呼び方が昔に戻ってるぞ」
白慧心は抱きついてきた白髪交じりの中年男を宥めてやりながらも、引きはがした。鈴鈴の父親は動揺のあまり、子供時分に呼んでいた呼称で白慧心を呼んでしまっている。もう不自然だから兄貴呼びはよせと言ったのに。
「おい、お前。何をしにきたんだ? もう来るなと言っただろうが」
前回の再会から、ひと月が経っていた。白慧心自身が旅に出ていたこともあり、何の音沙汰もなかったのに。南方将軍が一体なんの用件で、またこの小さな村に訪ねてきたというのか。
武神の座る席は、よりにもよって店の真ん中だった。周りの客がこわごわと距離を空けて見守っている。茶杯から口を離した南方将軍は、詰め寄る白慧心を見返して、こう告げた。
「あんた、師匠の屋敷跡に行っていたな? 怪しい。一体何を企んでいる?」
「何故それを……」
帰ってきたのはつい、先ほどだというのに。絶句した白慧心は、ふと鼻に届く香りに趙朱燿を凝視した。
目を伏せ、茶を呑む朱雀の長い睫毛が、下瞼に影を落としている。この香りは桑の葉の茶だ。沈黙した白慧心を不審に感じたのか「何を見ている」と、武神が軽く睨みつけてきた。
「元大罪人が、人界でよからぬ動きをしていると部下から報告が入った。今日から私もこの客桟に泊り、あんたの動きを監視することにした」
「はあ?!」
「そ、そんな……」
とんでもない事後報告に、思わず声を張り上げた白慧心、そして客桟の主人である鈴鈴の父親だった。周りの客たちも、高名な神仙の滞在が決まったことにざわめいている。青くなった鈴鈴の父親は「神仙様のおもてなしって、どうすればいいのかな」と呆然と呟いていた。
「将軍様は、そんなに暇なのか? 村人が混乱するだろ。とっとと帰れ」
「黙れ。あんたに指図する権限はない。……前回も思っていたが、そのざんばら頭はなんだ? 短くてみっともない。髪を伸ばせ」
指摘され、自身の頭を触った白慧心は内心舌打ちをした。しまった、
「村の外では、頭は隠しているさ。好きで短髪でいるわけじゃない。二百年前に髪を切られてから伸びなくなった……まあ、この長さだと手入れが楽でいいがな」
「なっ! だ、だれに……いや」
趙朱燿は「誰に切られたんだ」、と言いかけたのだろうか。だが、二百年前と聞いて刑罰のひとつだと思い当たったのか、途中で黙した。
刑の直前に、長い髪をばっさりと断ち切られた当時は絶望した。しかし今となっては、かえってよかったとさえ思えた。洗髪の手間が、最小限で済む。
店の隅で様子を見守っていた鈴鈴が、この機に乗じて白慧心の袖を引き、小声で尋ねてきた。
「道士さま。南方将軍さまに、もうお食事を出していいか、お母さんが聞いてきなさいって」
「こいつに食事は必要ない。神仙は人界の食い物は食わないんだ」
神仙が人界の食物を摂ると霊気が淀むのは、道士の中では常識だった。鈴鈴は当然知らなかったのだろう。「夕ごはん作っちゃった」と残念そうにしている。
「……安心しろ、俺が食う。鈴鈴の料理はうまいからな、楽しみだ」
路銀の出費で懐が大怪我を負っているが、少女の曇った顔を見るのは耐え難い。白慧心は店での食事を決めた。
(明日からは、野草だけ食って生きていこう)
鈴鈴とその母親はほっとしたように微笑んだ。
半人前の量に調整された皿が、卓の上に置かれていく。元化神の体は、霊根が壊れていても栄養を効率よく燃焼できる。一人前は食いきれない小食な道士の胃袋事情を、鈴鈴一族は良く知っていた。
向かいに置かれていく人界の食事に、南方将軍は不快な顔を隠そうとしなかった。
「……ここで食うのか?」
「いいだろ別に。ありがとうな鈴鈴。今日の献立は何だ?」
元弟弟子の非難を意に介さず、白慧心は鈴鈴に話しかけた。その言葉を受けて、嬉しげに胸を張った鈴鈴は自慢の料理を紹介していく。
「今日の献立は、韮と卵の炒め物、皮目をパリッとさせた川魚の香草揚げ焼き。お魚のたれには、香菜と生姜をたっぷり使ってるよ。あと、袋茸と豆腐のピリ辛湯。辛いもの食べると元気が出るよ! ご飯は、竹の筒で炊いたんだ。お父さんが昨日山で竹を取ってきたから、お客さんにも竹筒ごはんを出そうって、お母さんと相談して決めたの」
見るからに手が込んだ、しかし素朴な料理に思わず白慧心は喉を鳴らした。箸を手に取り、一口、韮と卵の炒め物を口に入れる。
「今日もやはり、うますぎる……! この餡はなんだ?少し甘酸っぱいな」
歯ごたえを残した韮と、ふわっと焼き上げられた卵。上にかかっているとろみのある餡が、塩気を引き立てていてなんとも複雑で奥行きのある味わいだ。
「うん! 隠し味に杏の蜜漬けを入れてみたんだ」
「おいおい、お前は天才か?」
王道の家庭料理が、自由な発想を持つ鈴鈴の手によって、一段階上に引き上げられている。
思わず唸った白慧心は、続いて川魚を食べ、袋茸の湯を一口飲んだ。川魚の皮目は期待通りに香ばしく、白身はふっくらとしており、香菜と生姜のたれが爽やかで食欲をそそる。袋茸の湯はあたたかく、唐辛子の刺激的な味わいで、鈴鈴の言う通り疲れた体が少し元気になるようだった。五分
夢中で人界の料理を食べる白慧心を眺めていた南方将軍は、ふん、と鼻を鳴らした。
「かつての天才道士が、堕ちたものだな」
痛切に皮肉られたが、特に何も感じなかった。白慧心の自認は既に只人だったからだ。まあ、ただの人間にしては、頑健にできてはいるが。
「お前も食ってみろ。せめて享食――匂いを嗅ぐだけでもしてみろって。鈴鈴は料理の天才、いや、神だぞ」
「本物の神仙の前で、人間を神扱いするとはいい度胸だ。はあ、食わないと言ってるだろう」
呆れた様子の趙朱燿に、白慧心は改めてその真意を問うた。
「ただ俺の監視で来たわけじゃないだろ。別の用件もあるんじゃないか?」
「……戻ってきたばかりで、あんたはまだ知らんだろうが、近隣の川が干上がったそうだ」
両腕を組みながら重々しく告げた南方将軍は、ことのいきさつを説明した。
将軍である趙朱燿は、南方の異変を掌握できる立場にある。どうやら、白慧心の住むこの村に起きた異変と趙朱燿が依頼を受けている任務になんらかの関連性があったらしい。詳しい話を聞いてみたが、任務の内容は頑として明かしてくれなかった。
「なるほど、では明日の朝にでも川の上流に行くか」
「……は? あんたも一緒に来るのか?」
人を監視すると断言しながら、付いてこられるのは嫌そうだった。白慧心はむきになり、「お前を手伝うためじゃない」と言い訳した。
「この村では川から獲れる魚も貴重な食糧だからな。俺の食い物事情にも直結する。いいか、俺自身のためだ」
「……」
「明日の早朝、また来るからな。勝手に出かけるなよ」
「…………」
(……無視か)
返事のない南方将軍に焦れて、何度も確認すると根負けしたのか、最後には「わかった」という言質を取ることができた。夜も更けてきたこともあり、白慧心はそろそろ帰宅することにした。
帰りしな、鈴鈴の父親が、神仙へのもてなし方法を聞いてきた。しかし特に思いつかなかった。飯は食わないし、汚れを寄せ付けない神仙には、風呂も必要ないからだ。あえて言うなら、居室だけは霊力の強い場所のほうがいいかもしれない。白慧心は二階の客室で一番霊力の強い一室を教えた。南方将軍をその部屋に泊めるよう指示した後、店を出た。
南方将軍は、人外の美貌の下で何を思っているのか。心労でくたびれた様子の白慧心を、店を出る直前までじっと赤い目で見つめていた。
――翌朝、まだ日が昇る前の早朝。白慧心は自宅を出て鈴鈴の客桟へ足を向けた。夜明け前の空はまだ紫色で、白い月が残っている。早朝だが農家が多いこの村は、もう仕事に向かう者もいた。
日の出前のひんやりとした空気の中、「道士様、おはよう」と声をかけてくる村人に、心あらずの状態で挨拶を返した。白慧心には若干の懸念があった。
(あいつにあれだけ念押ししておいたが……もしかすると、俺を待たずに先に行ってるかもしれん)
しかし、懸念は杞憂に終わった。客桟に辿り着いた白慧心が見たものは、早朝にもかかわらず、身支度を完璧に終えた南方将軍の立ち姿だった。客桟の裏手で飼っている鶏が姦しく鳴いていた。
「よお、早いな。昨日は寝れたか?」
「……何をにやついている」
日常的な鶏の声と、非日常感のある南方将軍様の取り合わせが可笑しく、ついつい頬が緩んでしまっていたようだ。まあまあ、と気安く武神の肩を叩こうとしたが、あっけなく避けられた。けちだな、とぶうたれた白慧心は、あることに気付いた。
「お前、焚天はどうした? 今日は持ってないのか?」
「そんな訳があるか」
そう返されたが、その細身の体のどこにもあの巨剣を隠し持っている様子はない。南方将軍は黒光りする甲冑を身に着けていたが、剣が入る隙間などは、存在しないように見える。
「ここだ。簪にして身に着けている」
南方将軍は自身の頭頂を指さした。長髪の赤毛を結ってまとめ、玉と金細工でできた小冠を被せているその部分に、鈍黒に光る飾り気のない簪が差し込まれていた。
「名剣を簪がわりにするとは……。焚天が泣くぞ」
「うるさい。体内に収納できなくなったから、致し方なくだ」
前回、天道との因果を切り離す処置を施した結果、焚天はただの剣へと化した。なんせ巨剣であるので、背負うと動きが制限されて不便だったそうだ。加えて直属の部下に、「味方の兵を威圧するから」という理由で剣を背負うことを強く止められたらしい。趙朱燿は身の幅こそ細いが、背丈は六尺(約百八十センチ)もある大男だ。焚天を背負うと、すさまじい迫力があったのだろう。
「あんたは……今日は、幞頭を被っているんだな」
「ああ、これか。村の中ならいいが、短髪姿で外に出たら罪人が逃亡したと思われて、牢にぶち込まれるかもしれんからな」
白慧心は、自身の頭に手を置いた。木綿でできた生成り色の幞頭が、癖のある黒髪を覆い隠している。
「罪人には、違いないだろうが」
一言、吐き捨てた南方将軍は、返事を待たずに背を向けた。つれない態度に苦笑した白慧心は、自分を待たずにさっさと目的地へ向かう背中を追いかけた。
「……足が速いな! ちょっと待ってくれ」
◇
川の上流は、白慧心が住む村から早歩きで四半刻足らず、およそ五里(三キロ)のところにある。最初に異変に気付いたのは毎朝、川海老を獲るのを日課にしていた村人だった。その日、いつものように川に出かけた村人は、水流が枯れて川底が見えていることに気が付いた。
「上流まで様子を見に行くと、巨石が源流を塞いでいたそうだ。人の力では動かせないほどの大きさだったので、私の廟に助けを請うた……おい、遅いぞ。早く来い」
白慧心はぜいぜいと荒い息を吐き、草を搔き分けながら少し先を行く背中を睨みつけた。あたり一面に靄がかかっていた。濃い土の匂いがする。落葉樹が葉を落としていた。斜面は朝露で濡れており、落ち葉を踏むとなおのこと滑りやすい。
今の白慧心は全盛期ほどではないが、そこらの成人男性よりは、よほど体力はあるはずだった。しかし、急勾配と道の悪さをものともせず、軽やかに歩を進める南方将軍はどうやら同行者に足並みを合わせる気遣いに欠けているらしい。山登りの速さではない。これは完璧に駆け足の速さだ。
「少し、歩調を、落としてくれ。死んでしまう、だろうが」
「……ふん。随分、か弱くなったものだな」
どこの誰が神仙に合わせて山登りが出来るというのか。無茶苦茶を言う南方将軍だったが、息の荒い白慧心の様子を見て考えを改めたのか、少し歩みを遅くした。
「廟へ訴えたら、村人の願いがお前の元に届くのか? ひとつひとつ、聞いてやってるのか」
「生憎と私も暇な身ではないのでな。全ての訴えを聞いてるわけではない。が、重要と思われる事項は報告するよう、部下に命令している」
(こいつと連絡を取りたいと思ったら近所の廟へ参ればいいわけか)
一瞬、そう考えた白慧心だったが、そんな機会など来ないと己の考えを否定した。共同戦線を張るのは、あくまで今日限りだ。今回の異変は将軍様的には重要事項らしいが、こんな小さな村の異変のどこが重要なのやら。内心不思議に思っていると、どうやら目的地に着いたようだ。
「……でかい」
「この大きさは、人には無理だな」
その巨石は、圧倒的な質量をもって存在していた。高さはおよそ五丈ほど(約十五メートル)。幅は四丈(約十二メートル)に及ぶだろうか。一見するとありふれた灰色の岩だったが、それにしてはどこか異質さを感じさせた。
岩は川幅を跨るようにして流れを堰き止めており、下からは細く水が漏れ出ていた。
「よし、では」
「……ん?」
頭の簪を抜き取った南方将軍は、拳を握りこむと虚空を切った。すると、瞬く間に巨大な幅広の剣がその手に現れる。黒光りする霊剣、焚天を片手で素振りした南方将軍は、見る者に『違和感』を与える巨石に対峙した。細身の体から無駄な力みが抜けていく。その両手が焚天の柄を握り直し、刃を前に構えた。
慌てた白慧心は、声を張り上げた。
「おい、待て待て! まさか焚天で斬るつもりか?!」
「何が悪い? 砕けばいいだけだろう?」
(これだから、神仙様ってやつは。人間の生活を考えられないのか!)
「ここは山の頂きに近い。わかるか? 粉砕したら、岩のかけらが麓に転げ落ちるだろ! 村人が落石に当たったらどうする! 持って運べ。ほら、お誂え向きに、あそこに開けた場所がある」
白慧心が指す場所は、草木が倒れ広場のように開けていた。もしかすると、付近の住民が休憩場所にと、あえて作ったのかもしれない。村人には悪いが、岩を置かせてもらうことにしよう。
「……黙れ、指図するな」
しかし文句を言いつつも白慧心の言い分に一理あると思ったのか、南方将軍は焚天を仕舞った。元の通り愛剣を簪に変化させて自分の髪に差し込むと、再び岩を見上げた彼は「やはりおかしい」と呟いた。
「何がだ?」
「……」
また無視か、と不貞腐れる白慧心を放置した南方将軍は、両腕を広げて岩に抱きついた。
みしりと岩が悲鳴を上げた。白い手指が岩肌をわしづかむ。武神の指がまるで粘土に埋め込むが如く、岩にめり込んだ。やがて轟音を立て、岩が地面から離れた。岩の下から我先にと、水流が流れ出る。堰き止められていた川が元の姿を取り戻していく。
「邪魔だ」
「あ、ああ……」
南方将軍は巨石を持ち上げたまま、白慧心に退くように命令した。細身の男が小山のような巨石を持ち上げている光景は、現実味がなく幻を見せられているようだ。
慌てて避けると、武神は岩を持ち上げたまま一歩を踏み出した。軽々とした足取りだ。いや、よく見ると歩く度に、長革靴に包まれた足が、深く地面に沈み込んでいる。岩の重量を考えた白慧心は、ぞっとした。
(こいつの怪力は、二百年前よりも磨きがかかっているな……)
白慧心が指定した空地にたどり着いた南方将軍は、抱えていた巨石から腕を離した。地震かと勘違いするほどの、振動が起こった。こうして、無事に岩の除去は完了した。
武神は両手についた砂を払いながら、訝しげな様子だった。どうしたのかと思い、白慧心が近寄ると「思ったより軽かった」となど言い出したので仰天した。
「お前が言う、『軽い』はどうにも信じられん」
「……これは普通の岩ではない。昔、任務でよく似た巨石を除去したことがある。この異質な存在感、異質な霊力。恐らくこの巨石は、隕石だろう」
しかし隕石にしては質量も霊力も軽い、というのが彼の見解だった。隕石など見たことが無い白慧心だったが、経験者がいうからには、きっとそうなのだろう。
「……この岩はどうして軽いんだ?」
「わからん。だが、まるで抜け殻のような……あるいは『食いさし』のような。そんな印象を受ける」
隕石にも種類があり、この岩は軽い種類なのでは? そう思った白慧心は、何の気なしにざらついた岩肌に触れた。
『標的:**甲**を補足―対象を確認―座標******の村』
『対象を確認―**最終殺害信号**―試行中』
『確』『認確『認確認』『標的:甲』
『甲=?乙』『乙=甲??』
『標的:**乙**を補足―対象を確認―座標******宇宙』
『座標を確認―移?動???―試行』
『座標』『座標』『座』標』す』―試行』
『不具合が発生―原因特定―修正中』
『標的:**甲**―元の座標へ移動―座標******宙』
『標的:**甲**―**生命活動**停止―**精魂**抽出―成功』
『標的:**乙**―元の座標へ移動―移動停止―**予備燃料**貯蔵―亜空間へ保管―成功』
『標的:**乙**―圧縮開始―壱割―五割―八割―成功』
『標的:**乙**―**精魂**置換―演算開始―壱割―五割―八割―成功』
『標的:**乙**―**精魂**抽出―三割―五割―』
『履歴番号九百************百五十二:**精魂**抽出―成功。**燃料充当**―成功』
『標的:**乙**―再貯蔵―**貯蔵空間**圧迫』
『標的:**乙**―元の座標へ移動―座標******の村』
『試行中―五割―八割―成功』
「……そういうことか」
「何が読み取れた?」
俯いた白慧心に、趙朱燿が尋ねた。岩に触れていた手を放す。巨石を通じ、流れ込んできたのは天道――世の理の、無機質な悪意。
「お前はすごいな、南方将軍。この巨石は隕石の一種には違いない。これは……空に浮かぶ星、そのものだった」
この思念が何年前の物かはわからないが、恐らくはこういう経緯だった。
天道は犠牲になる神仙(甲)へ殺害信号を発信した。その時、なんらかの不具合が起こった。なぜか天道は神仙(甲)と恒星(乙)を取り違えた。不具合は即座に修正されたが……両者の座標は、取り違えられたままになった。
恒星は天道の貯蓄倉庫に収納され、神仙は星が存在していた場所へと戻された。狙われた神仙は、おそらくもう生きてはいまい。『甲―生命活動停止』この不気味な信号が、神仙の死を表している。
その後天道は、予備燃料として持っておいた星を圧縮し、『精魂』と呼称する燃料へ置き換え、途中まで食った。だが完食直前に、他の神仙を食えたことで満腹になった。天道は食いさしの星を吐き出し、神仙が居た座標へと戻した。
――『天道が食った他の神仙』は、おそらく白婉だ。
ぐっ、と喉が詰まり、目の裏が灼けるように熱くなる。白慧心は、天道への憎しみが再びこみ上げてくるのを無理やりに飲み下した。
「星が落ちるということは……天の怒りが伴うものだ。だが、この付近には焼け焦げた跡も、星が落ちる轟音も、何も報告はなかった」
「ああ、そうだ。もう俺たちの知っている『天』はなくなったんだよ」
断言した白慧心を、南方将軍はじっと見つめてきた。
「落ちた星と、師匠の死と、あんたの罪。すべて結びついているのか? ……まだ、何も言う気は無いのか」
相変わらずの勘の良さに驚嘆しつつも、白慧心は真実を告げようか一瞬、躊躇った。天道に狙われていることは、本人に黙っておこうかと思っていた。しかし、ある程度は自衛してもらったほうがよいのではないか。
「あんれまあ。これはこれは……。あんなに大きな岩が除けられて! あなた方は、仙人様ですかな?」
騒がしくしていたせいだろうか。老人が二人に声を掛けてきた。
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