第六話 冬乃の記憶①

 まずはじめに、冷たい雪が降る夜のことを、思い出した。


 わたしは川辺の石段を転げ落ちていた。


 悲鳴を上げる間もなく、固い石の角に体を何度もぶつけながら転がり落ちていた。


 ――どうして? 


 そう、わたしはあのとき、逃げていた。嫁いだ相手……夫だった人……谷浦浩児が酔っぱらって殴ってきたから。


 あの日、「旦那が酔いつぶれちまった、迎えにきてくれ」と飲み屋の客が家まで呼びにきたので、わたしは寒空の下、半纏の前をかき合わせながら店まで向かった。


 呼びに来た客は道中、何度も「いつもすまねえ」「今日は特に荒れててよォ」と申し訳なさそうに頭をさげていた。彼は夫の元職工仲間で、仕事が終わるといつも一緒に安酒を飲む。夫はそこで酔っ払い、家に帰ると――わたしを殴った。


 夫は元々製鉄会社の下で働く職工だった。しかし不景気の波に呑まれ職を失い、土木作業や雑用の日雇い人としてあちこちを渡り歩いている。わたしの顔を見るたびに彼は叫んだ。


「おまえも、俺を馬鹿にしてんだろッ!」


 と真っ赤な顔に涙を浮かべて、馬乗りになって、わたしを殴る。着物を剥いで、すべての怒りをわたしにぶつける。


 冷たくがさがさした畳の上で蹂躙されるわたしを、老婆が部屋の隅からじっと見ている。あれは――そう、義母だった。小さな長屋の一室に、夫と義母とわたしは三人で暮らしていた。


 夫が仕事に出ているあいだ、わたしも暇を見つけては内職を掛け持ちして日銭を稼いだ。義母はわたしにすべての家事をやらせて寝ていた。食事を出すと「味が薄い」と椀を投げつけられ、畳にこぼれた食べ物を「拾って食え」と命じた。そして夫が帰ると「あの嫁にいじめられた」と泣きつく。激怒した夫がわたしを殴る……


 ああ、ああ。次々に、思い出す。頭の靄の中をかき分けるように、奥へ奥へ……記憶を拾い上げていく。



 あの日……飲み屋へ夫を迎えにいき、酔いつぶれた夫を支えながら帰っていた。凍えるような風がふきつけ、夫はその寒さに怒った。


「なんで俺がこんな寒い思いをしなきゃなんねえ」

「なんで俺が、こんな中で働いてるっていうのに、おまえは家でぬくぬくと好き勝手やれてるんだ!」

「馬鹿にしやがってッ!」


 瞬間、わたしは突き飛ばされ、地面に倒れ伏していた。


 夫は泣きながらわたしを蹴りつけた。その力はいつもより強く、痛みで舌を噛んでしまい、口の中に血の味があふれた。


 吹きつける風の冷たさのせいか、夫が蹴りつけるたびに痛みと衝撃が骨身をつらぬき、わたしは苦しみながら(死ぬかもしれない)と思った。


 死を感じたわたしは、無我夢中で地面を這いだした。どこか宛てがあるわけでもないのに――百足みたいに。必死になるあまり、すぐ目の前に階段があることさえ、気づかなかった。


 あっという間にわたしは転げ落ちていた。


 そして、目が覚めたとき、わたしは病院の布団で寝かされていて……夫にまつわる記憶を失っていた……



「おい、起きろ!」


 乱暴に蹴られて目が覚める。すぐ目の前に谷浦浩児の顔があった。


「いつまで寝てんだ! 飯は? 俺ぁ言ったよな、おまえは俺の奴隷だって! なのに俺より長く寝やがって、ふざけんなよ!」


 冬乃は飛び起き、すぐさま床に伏した。


「申し訳ありません」

「飯抜きで行けってか! この役立たずが! でくの坊が! クソックソックソッ!」


 クソ、と叫ぶたび、冬乃の横腹が蹴りつけられる。でも、悲鳴を上げてはいけない。泣いてはいけない。


 ……どうして、泣いてはいけなかったんだろうか……


 誰かが昔、泣いてもいいと言ってくれた気がするのだが思い出せない。


 谷浦は散々冬乃を蹴りつけたあと、台所のお櫃の中に手を突っ込み、冷えた米の塊を口につめながら玄関から出ていった。


 冬乃はのろのろと身を起こし、立ち上がろうとしたが、ふと違和感を覚えて足元を見下ろす。


 右足首に、縄がくくりつけられている。それは狭い寝床の壁につながっており、太い杭が打ちつけられていた。


(今度こそ逃がさない、ということ……?)


 縄はとても長く、壁の高い位置にくくりつけられているというのに余った縄が地面に大きなとぐろを巻いていた。台所の土間には降りられるが、玄関を出ようとすると長さが足りず、足首をぐんと持って行かれてこけそうになる。絶妙な長さをしていた。



 谷浦の義母は一年前に亡くなったそうだ。家事をする者がいなくなり、家が荒れたので代わりの嫁を探したが見つからず、困り果てた末に冬乃を探したのだと、酔っ払いながら語った。


 谷浦は仕事が終わって帰宅すると、どこからか調達してきた粗悪な安酒を仰いで喉を鳴らす。冬乃が出した食事――粟と玄米のまぜものに汁物や干物をつけただけの簡素な箱膳に口をつけ、全部たいらげてから「なんだこの味は!」と怒鳴って食器を投げつけた。


 逃げようにも、足首の縄が邪魔で動けず、転びそうになるので、体を丸めて耐えるしかなかった。


「てめえ、ふざけてんのか!? 奴隷のくせによォ!」


 谷浦が冬乃の両手を押さえ込み、畳の上で着物を剥ごうとする。

 ぞっと寒気が全身を襲った。


「いや!」


 ――こんな男に、体を開きたくない。


 その思いが体を駆け巡り、全身の血がどくどくと波打ったとき、谷浦は「クソッ!」と冬乃を突き飛ばした。


 何が起こったのかわからなかった。だがしばらくして、足のあいだに濡れた感触があるのに気づいた。出血している。月のものだ。


 だが、周期とは明らかに外れている。まるで体が谷浦を拒否するかのように、血が滲み出ていた。


 体の奥は、守られた。けれど、欲の行き場を失った谷浦の蹴りを腹へまともに受けて、冬乃は悲鳴を上げる間もなく失神した。


 目覚めたとき、辺りはまだ暗く、すぐ近くで谷浦のいびきが轟いていた。布団も出さずにひっくり返って眠っている。


 冬乃はもう、起き上がる気力もなく、冷たい畳に頬をつけたままゆっくりと瞼をまたたいていた。


 闇に慣れた目が、ぼんやりと台所の光景を映す。――その瞬間、頭の片隅に鋭い痛みが走った。同時に、全く同じ台所の景色の記憶が、眼に映る景色に重なって見えた。


 ――そうだ。以前もここでわたしはここで倒れていて……誰かに、縋っていなかったか。


 おかしなことだ。縋る相手などいるはずもないのに。でも必死に誰かの名を呼んでいた気がする。


 自分はいったい、誰の名前を……


『勝市様……』


 唐突に、悲痛な声が頭の中に降ってきた。


『勝市様……』


 記憶の底から何かが浮き上がってくる。これは、いつかの自分の声だ。


「勝市……さま」


 ほとんど声に出さずに、冬乃は小さく唇を動かした。その瞬間、頭の靄の晴れ間から記憶の渦が一気に吹き上がり、冬乃は息を呑んだ。


 勝市様。そう呼べと言ったのは、川島勝市だ。

 十年以上前、奉公していた屋敷にいた……目つきの鋭い、黒髪の少年……


(わたしは、川島様を知っている)


 たびたび夢に見たあの少年は、遠い記憶に実在していた。


 自分は、川島家に仕える女中だった……

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