第7話 5
バ、バックレようかな。
レナは一瞬そう思った。たった今会ったばかりの王女様を、ウィリアム殿下とやらのところへ送り届ける義務なんてレナにはない。理由がどうあれ、下女のレナが王女様とご一緒するなんて罰が当たる。触らぬ神に祟りなしというではないか。
お城の外へ出たら「ちょっとここで待ってて」とか適当なことを言って、自分だけ逃げてしまおう。
そうだ、それがいい。
……ちょっと待て。
どっかで聞いた話だな。
……………………。
あっ、自分が母親にされたことだ。
あー、ええー? ダメじゃない? レナはちらりと横目でジュリエットを見た。彼女はこぼれる涙を白い手でぬぐっている。ひっくひっくとえずきながらも顔を真っすぐにあげ前を見る。決してうつむかない。
「え、えっと……」
どう話しかけたらいいものか。
「ジャンヌさんは……」
「ジャッ、ジャンヌはっ、じっ、自分のっ、役割を果たしにっ、いっ、行きましたっ」
えずきながらもジュリエットは言った。
「自分の役割……」
「はいっ。だ、だからわたくしも自分の役割を果たさなければなりません。でもわたくし、お城の外のことはなにもわからないのです。だから連れて行ってください。お願いしますっ」
王女様がぷるぷると小刻みに震えながら、自分に頭を下げている。その光景をレナは呆然と見ていた。
なんてことだ。王女様が下女に頭を下げた。
ダメだ。見捨てられない。
小さな女の子だ。レナからジュリエットのつむじが見える。たぶんレナと同じくらいか年下。14才とか15才とか。小さくて細くてぷるぷると震えながら流れる涙を必死に抑えようとしている。こんな状況じゃなかったら、遠慮なく泣きじゃくるんだろうな。
――そうか、母はレナがじゃまだったんだ。だから置いていったんだ。
レナは唐突に理解してしまった。と同時にその無責任さに悲しくなった。たった今会ったばかりのジュリエットに対するレナの思いと、産み育てた子どもに対する母の思いが同じくらい軽い。母を求めるレナの思いは一方的だったのだ。
――なんだ、そうか。
レナが母を待ち続けていたとき、母はじゃまなお荷物を捨てて身軽になって喜んでいたんだ。
そうか。あんなに不安で怖かったのに。
わたしは母とは違う。
それは意地だった。わたしを捨てた母と同じことはしない。だって、頼まれちゃったし。
「姫様」
呼びかけるとジュリエットは「はい」としっかりした声で答えた。
「行きましょう。こちらです」
レナはジュリエットの手を引いて走り出した。
***
王女様はこんなところ、通ったことないだろうな。と思いながらがさごそとノイバラのしげみをかき分けくぐり戸へ。閂を外して扉を押す。建付けの悪い木製の扉がぎぎっと鳴った。わあっとか、うおーっとか文字にならない怒号が飛び込んできた。思わず首をすくめる。隙間からそうっと外の様子をうかがう。
人々が集まっているのはお城の正面で、裏手にあたるこの場所には誰もいなかった。
どこに身を隠そうかと考えた時に、レナには一か所思いつくところがあった。孤児院の階段下である。孤児院は袋小路の突き当りにあり、知らない人間が通りがかる場所ではない。1階が食堂兼ホールと先生たちの部屋、院長の自室、外階段を上った2階が子どもたちの部屋である。
その階段の下にはほうきやバケツ、スコップなどが乱雑に置かれたいわば物置がある。人目に付かないあの場所ならば子どもたちが起きてくるまでの間、隠れるのにちょうどいい。体制を整える時間も必要だ。これからどうするのか計画を立てなくてはならない。
だが問題は孤児院の場所。孤児院へ行くにはお城の正面広場を横切って下町方面へ徒歩で20分。どうにか目立たないように広場を渡らないといけない。
「姫様」
レナはジュリエットの手を引いたまま、扉の外へ出た。
「正面広場を横切らないといけないんです」
「わかりました」
ジュリエットはこくりとうなずいた。少し考えて、レナは自分のエプロンを外してジュリエットの頭にぐるぐると巻きつけた。
「すみません。髪が目立つものですから」
そう言うとジュリエットは、またこくりとうなずいた。
手をつないだまま、小走りに広場へ向かう。大きくなる喧騒にすくみそうな足を必死で動かす。
そうして着いた広場には、王都中の人間が集まったのかと思うほどの群衆がいた。熱狂? 狂乱? 異常なほどの熱気だ。ただ、みな一様に城門の方を向いてこぶしを振り上げ、赤い布を振り回し、口々になにかを叫んでいる。
こちらに気づくものはいなかった。
なんだ、その赤い布は。
「姫様、行きますよ」
話しかけても怒号にかき消されてしまう。レナはジュリエットを引っ張るように広場の縁に沿って駆け出した。
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