王道幼馴染物 中編
佐藤は、教室の前で一が立ち尽くしているのを見ても、背中を押さなかった。
かといって見なかったことにも、しなかった。
ただ、声を落として言った。
「……ここで終わりにしよう」
一は、言葉の意味がすぐに理解できなかった。
“終わり”とは何だ。
この場から逃げるのか。見なかったことにするのか。
そんな都合のいい選択肢が、本当に残っているのか。
けれど佐藤の声は、妙に現実的だった。
「これ以上見ても、増えるのは情報じゃなくて傷だ」
一は、瞬きもできないまま、ようやく息を吐いた。
その息が、喉の奥で擦れる。
佐藤は言った。
「帰ろう。今は、外に出た方がいい」
佐藤は腕を掴まなかった。
肩にも触れなかった。
ただ歩き出し、一がついてくるのを待つ速度で廊下を進んだ。
——不思議だった。
なぜ自分は、この人についていけるのか。
知らないはずなのに。
友達というほど近くないのに。
それでも一は、佐藤の背中に“逃げ道”を感じた。
崩れていく世界から、いったん距離を取るための、細い線。
適当な飲食店に入った。
チェーンのファミレスでもよかったが、佐藤が選んだのは、学校帰りの生徒があまり入らない小さな定食屋だった。
店内は静かで、テレビの音が遠くにある。
「食える?」
佐藤が訊ねた。
一は首を振った。
胃の形がなくなったように感じる。
「水だけでいい」
佐藤は頷き、店員に水を二つ頼んだ。
水が届く。
一は手を伸ばすが、指が震えてコップがうまく掴めない。
佐藤は何も言わない。視線も向けない。
“見ないことで守る”のではなく、“見ないことで圧を与えない”距離だった。
しばらくして、佐藤が口を開いた。
「……話せる範囲でいい」
一は笑いそうになった。
笑える要素なんて、どこにもないのに。
「話せる範囲が、分からない」
「なら、知ってるところからでいい」
一は、言葉を探した。
探しても、何も見つからない。
見つからないまま、口が勝手に動き始めた。
「詩鶴とは……生まれたときから隣だった」
声が、自分のものじゃないように聞こえる。
「家同士も仲が良くてさ。親同士が……本当に家族みたいにしてて」
一は、詩鶴の名前を言うたびに胸が痛んだ。
それでも、止められない。
「中三のとき、亮太って転校生が来た」
佐藤は頷くだけだった。
促さない。遮らない。
「最初は……関わらないはずだった」
関わらない。
そう言い切るほど、自信を持っていたはずなのに。
「でもあいつ、距離の詰め方が上手くて。
断れないようにしてくるっていうか……」
一は拳を握る。
「詩鶴も、俺も、強く言えるタイプじゃないから……」
言葉が、そこで詰まる。
“弱い”という言葉を口にした瞬間、過去の自分が崩れる。
「……それで、少しずつ変わった」
一は、中学の頃から感じていた違和感を、ひとつずつ言葉にする。
連絡の遅れ。
理由の曖昧さ。
目を合わせない瞬間。
触れることを避ける距離。
「でも、俺は……信じてたんだ」
信じたかったんだ、と言い直しかけてやめた。
言い換えたところで、本質は同じだ。
「高校になって別クラスになってさ」
一は、今日の昼の会話を思い出す。
廊下ですれ違った生徒たちの、悪意のない笑い声。
「詩鶴と亮太が、夫婦みたいだって……」
声が掠れる。
「手、つないでたって……」
佐藤は、ここで初めて言った。
「それで、見に行った」
一は頷いた。
「……見た」
それ以上、言葉が続かない。
“キス”という単語を言った瞬間、世界が決定してしまう気がして。
佐藤は、一の沈黙を受け止めたまま、水を一口飲んだ。
そして——淡々と、結論へ向かう。
「……宮野」
佐藤の声は、優しくない。
だが冷たくもない。
「今までの話、全部まとめる」
一は顔を上げた。
佐藤の目には、同情がなかった。
その代わり、奇妙な“透明さ”があった。
「詩鶴は、最初はお前が好きだった。これは多分本当」
一の心が一瞬だけ跳ねた。
肯定されたような気がして。
しかし佐藤は続ける。
「でも途中で、亮太と関係ができた」
一は、拒否したかった。
「そんな言い方をするな」と言いたかった。
だが、言葉が出ない。
出せば、自分が壊れるのが分かっている。
「最初は事故みたいな形でも、その後、切る選択肢はあった」
一の手が、テーブルの端を掴む。
「そこで助けを求める先は、本来お前だった」
一の喉が鳴る。
「でも詩鶴は、“迷惑をかけたくない”とか“壊したくない”とか、そういう理由で黙った」
一は反射的に言いかけた。
「詩鶴は……そういう子だ」
佐藤は頷いた。
「だから言う。これは悪意じゃない。構造の話だ」
構造。
その言葉が、一の耳に引っかかった。
「黙った時点で、守ったのは“お前”じゃなくて“詩鶴の生活”だ」
一の胸に、鈍い痛みが走った。
「守りたいものが二つになった。お前との安心と、亮太から得る刺激」
佐藤は言葉を選んでいる。
刺激という言い方に、一は救われた。
“それ以上”を想像しなくて済むから。
「二つを手放せなくなると、人は隠す。隠すことに慣れる。慣れると、罪悪感は薄まる」
一は首を振りたかった。
詩鶴の罪悪感が薄まったなんて、認めたくなかった。
佐藤は、容赦なく続けた。
「で、最後は“隠しきれない形”で表面に出る」
「……今日みたいに?」
一が絞り出す。
「そう」
佐藤は言う。
「今日の光景は、偶然じゃない。お前が気づくことを、もう止めなかっただけだ」
一は、理解を拒みたかった。だが、心のどこかがもう頷いている。
——納得してしまっていた。
佐藤は、そこで結論を置いた。
「宮野。お前ができるのはここからだ」
一は唇を噛む。
「ここから……何ができるんだよ」
佐藤は即答しなかった。
その沈黙が、一を追い詰める。
「……自分で選べ」
佐藤は言った。
「詩鶴を責めるか。亮太を責めるか。詩鶴に縋るか。全部切るか」
一は顔を歪めた。
「選べるわけないだろ……」
「選べる」
佐藤は断定した。
「選ばないっていう選択も含めてな」
一は、目を伏せた。
涙は出ない。
涙が出る段階にすら行けない。
佐藤は言った。
「……俺は答えを出さない。出しても意味がない」
一は、佐藤を見た。
「……なんで、そこまで」
佐藤は一瞬だけ、視線を遠くへ投げた。
自分の内側を覗かれたくない人間の癖。
「……昔、似たことがあった」
それだけ言って、佐藤は水を飲んだ。
それ以上は語らない。
語らなくても、一は“立場”を理解した。
この人は、答えを押し付けない。
材料を置き、解釈させ、選択させる。
それが、今の佐藤のやり方なのだと。
玄関の鍵が回る音は、今日も同じだった。
香織はキッチンにいたのに、エプロンを外して走った。
走った、というほどの距離じゃない。
それでも、走らなければ間に合わない気がした。
護を迎える瞬間だけは、
自分がまだ“妹”でいられる気がするからだ。
「……おかえり」
廊下の空気が少しだけ冷える。
「ただいま」
護はそれだけ言って、靴を揃え、鞄を持ち替えた。
目は、香織を見ない。
香織は息を整える。
今日は、昨日と同じことはしない。
同じ結末にするわけにはいかない。
「……あのね、今日は」
言葉が震えそうになるのを押さえる。
「夕飯、別に“作ったから食べて”じゃなくて」
言い方を変える。
押し付けない。
お願いにならないように。
「……お兄ちゃんが食べられるもの、あるかなって思って」
護は靴下のまま廊下を進みながら、短く返した。
「俺は大丈夫」
香織の喉の奥が、きゅっと縮む。
「……でも、水だけじゃ」
「買ってきた」
それ以上の説明はない。
香織は、護が手にしている袋を見る。
コンビニのロゴ。
胸が痛い。
分かっている。
護は、香織の料理を食べない。
食べないだけじゃない。
“受け取らない”。
香織が差し出す行為そのものを、なかったことにする。
それが、静かな拒絶だと理解している。
理解しているのに、
毎日やってしまう。
やらなかったら、
もっと自分が壊れるから。
「……お弁当も」
香織は、今日も言う。
言わないと、何も始まらないから。
「作ってない。今日は作ってない。
ただ……明日もし、必要なら」
必要なら。
必要じゃないと分かっている言葉を、口にする苦しさ。
護は廊下の途中で立ち止まりもしない。
「いらない」
短く、静かに。
いつも通り。
香織の胸に、罪悪感が沈殿していく。
昨日より重く。
今日の方が、もっと重く。
“昨日と同じ”だった。
言い方を変えても、
アプローチを変えても、
結果は変わらない。
変わらないという事実が、
香織の後悔を更新していく。
——やっぱり、取り返しがつかない。
その結論が、頭をよぎる。
よぎった瞬間、香織は息が苦しくなる。
取り返しがつかないなら、
自分は何をしているのだろう。
謝って、許されて、
昔みたいに笑って、
兄に甘える。
そんな未来は、
もう存在しないのだろうか。
香織の視界が滲む。
その滲みの奥から、
忘れられない記憶が、勝手に浮かび上がる。
――あの日の食卓
あの日、香織は笑っていた。
“楽しい”と思っていたわけじゃない。
ただ、笑えば褒められるから笑っていた。
叔父が、背後にいた。
「やってみろ」
叔父は、優しい声で言った。
“優しい声”というのが、今思えば最悪だった。
「お兄ちゃんのこと、嫌いなんだろ?」
香織は頷いた。
頷くことで、叔父が満足するのが分かった。
「じゃあ入れろ」
叔父が、皿の陰に小さな袋を置いた。
中身は、細かい透明な破片。
最初、香織はそれが何か分からなかった。
「ほら。少しだけだ。
気づかない」
叔父は笑った。
香織も笑った。
笑うしかなかった。
笑わないと、次は自分が何をされるか分からなかった。
香織は、言われるままに入れた。
護の皿に。
護は気づかずに口に運んだ。
次の瞬間、護が顔を歪める。
「……っ」
護は手で口元を押さえた。
指の隙間から赤いものが滲んだ。
ぽた、と。
床に落ちる。
護が膝をつき、呼吸を乱す。
苦しそうに、声にならない声を漏らす。
香織は、その光景を見ていた。
“すごい”と思った。
自分が何かをした結果が、目の前で形になったことが。
叔父が笑った。
「ほらな。
こいつはこうしてやらないと分からない」
香織も、笑った。
笑ってしまった。
その瞬間の自分の顔が、
今でも夢に出てくる。
香織は、キッチンの床を見つめていた。
床に血はない。
当然だ。
あの日とは違う。
違うのに、護は変わらない。
“変わらない”のではなく、
変われないのだと香織は理解している。
料理を食べないのは、わがままではない。
拒絶でもない。
護にとっては、生存の条件だ。
香織は冷静に分析してしまう。
当時の自分は異常だった。
叔父の環境は異常だった。
笑いながら誰かを傷つけることを“正しい”と思わせる空気があった。
でも。
冷静に分かっても、現実は変わらない。
護は戻らない。
戻れない。
香織は唇を噛む。
それでも——
(戻りたい)
と願ってしまう。
昔みたいに。
兄に甘えて。
兄が呆れながらも許してくれて。
何もなかったみたいに笑って。
そんな都合のいい幻想を、願うことしかできない自分が、嫌になる。
(……もう取り返しがつかないのに)
その結論を、どうしても覆したい。
香織は、喉の奥が熱くなるのを堪えながら、護の閉じた部屋の扉を見た。
中から音はしない。
——今日も、何も得られなかった。
得たのは、無関心という拒絶だけ。
それが、香織の後悔をまた一段濃くした。
泣き声は出ない。
出したところで、扉は開かない。
香織は、ただ立っていた。
立っていれば、まだ壊れずに済む気がした。
翌朝、宮野一は自分から佐藤に声をかけた。
昨日の店での会話が、頭に残っている。
結論は理解できる。
だが、選べない。
選べない自分が、惨めだった。
「……佐藤」
佐藤は歩きながら振り返った。
「どうした」
「俺、昨日……結局、何も決められなかった」
佐藤はすぐに答えない。
それが、どこか安心できた。
「それで?」
佐藤は問い返す。
一は、苦しさを飲み込んで言う。
「助けてくれ」
言った瞬間、心が折れそうになった。
助けを求めることが、弱さに見えて。
佐藤は、弱さとして扱わなかった。
「助けるって、何を?」
佐藤は言う。
「俺は手を動かせない。
動かせるのは、お前だけだ」
その言い方が、一の胸に刺さる。
昨日の佐藤と違う。
昨日より、少しだけ——
護に似ている。
佐藤は続ける。
「俺ができるのは情報を整理して置くことだけ」
「……じゃあ、置いてくれ」
一は絞り出した。
佐藤は頷いた。
「いい」
それから数日、同じやりとりが続いた。
学校の休み時間。
帰り道。
人の少ない場所を選んで。
一が情報を話す。
佐藤が整理する。
佐藤が結論を“断定ではなく”置く。
一が拒む。
一が考える。
一が戻ってくる。
佐藤は答えを与えない。
答えを“選ばせる”。
それが、一には苦しかった。
だが同時に、救いでもあった。
誰かに決めてもらえば楽だ。
でもそれでは、次に進めない。
佐藤は言った。
「お前の人生だ。お前が選ぶ以外に、終わらせ方はない」
その言葉が、何度も反芻される。
一は少しずつ変わり始めた。
詩鶴を思い出すたびに胸が潰れるのは変わらない。
だが、潰れながらも——
「どう感じるか」ではなく
「どういう構造だったか」を考える時間が増えた。
気づけば、
怒りより先に、理解が来る。
悲しみより先に、整理が来る。
そしてある日、一はふと気づく。
(……俺、戻ろうとしてたんじゃない)
(壊れたものを、壊れてないことにしてただけだ)
その気づきは、痛かった。
だが、目が覚めるようでもあった。
価値観が、ゆっくりと置き換わっていく。
——新しい人生観の兆しが、そこにあった。
翌日、昼休み。
一は授業中ずっと、佐藤の言葉を反芻していた。
“構造”。“選べ”。
それを理解したいのに、理解できない。
何が引っかかっているのかすら分からない。
喉に小骨が刺さっているようで、でも場所が分からない。
放課後、一は佐藤に言った。
「……神崎護って、どんな奴なんだ」
佐藤は一瞬止まって、それから小さく頷いた。
「会うか」
校舎裏。人気のないベンチ。
護は本を読んでいた。
顔を上げるだけで、立ち上がらない。
佐藤が簡単に紹介し、一は自分で頭を下げた。
護は返事だけを落とした。
「で、何」
声は平坦だった。
優しくも冷たくもない。
温度がない。
一は腹の奥に力を入れて言った。
「……俺、どうしたらいいですか」
護は、少しだけ目を細める。
考える、というより“計測”しているみたいに。
「どうもしなくてよくない?」
一は固まる。
「……え?」
「別に、彼女じゃなくなったって幼馴染なのは変わらないだろ」
一は言葉を探す。
探しても、見つからない。
その間に護が続ける。
「仲良くすることと、恋愛対象にすることは同義じゃない」
護は一の顔を見ながら言う。
「お前、家族を大事にしてる奴は家族を恋愛対象にしてると思うタイプ?」
心臓が跳ねた。
反論しようとして、反論できない。
「……違う」
「だろ」
護は淡々と落とす。
「じゃあ“恋愛対象じゃない=大事じゃない”って発想がズレてる」
一は息が苦しくなる。
“ズレてる”のが自分だと理解してしまうから。
護は、さらに踏み込んだ。
「お前がまだ決められない理由、簡単」
一は喉が鳴る。
「まだ“自分のもの”だと思ってる」
一の背中に冷たいものが走る。
「独占欲。言い換えるなら、所有感」
護は、言葉を濁さない。
「結果は出てる。選ばれなかった」
一は目を逸らす。
逸らしたところで、言葉は刺さったままだ。
「なのに“選べない”って言い続けてるのは——」
護は一拍置く。
あざ笑うためじゃない。
事実を定着させるための間。
「……惨めだよ。敗者の言い訳に見える」
一は、息が止まった。
怒りは出ない。
反発も出ない。
ただ、心が落ちる。
護は最後に言った。
「選ぶってのは、勝つためじゃない。
自分の責任の場所を決めるだけ」
護は本を閉じて、立ち上がった。
「じゃ」
それだけで去ろうとする。
佐藤が一礼し、一も反射的に頭を下げた。
護は振り返らなかった。
帰宅して、制服のまま床に座った。
鞄を下ろすのも忘れた。
(……俺は、欲張りだったのか)
詩鶴を愛していた。
それは確かだ。
でも、護の言葉が邪魔をする。
“自分のものだと思ってる”
“独占欲”
“惨めな敗者”
自分の中に、“詩鶴はいつか戻ってくる”という前提があったことに気づく。
戻ってくるべきだ、という傲慢さ。
それを認めたくない。
認めたら、今までの自分が汚れる気がする。
でも、認めないと進めない。
結局、一は朝まで眠れなかった。
昼休み、佐藤のところへ行った。
「……昨日神崎君に言われたことを考えた」
「そうか」
佐藤の声が少しだけ低くなる。
それだけで、“あの言葉の強さ”を佐藤も分かっていると伝わる。
一は、言葉を並べる。
「俺は、独占欲だったのかもしれない。
だから……詩鶴を諦めればいいんだろ」
佐藤は首を振らない。
でも、目が「違う」と言っていた。
「それ、“諦める”が目的になってる」
一は唇を噛む。
「じゃあどうすれば」
「“諦める”も“取り返す”も、詩鶴が中心だろ」
佐藤は言う。
「護が言ってたのは、多分そこじゃない」
一は息を止める。
「お前が決めるのは、詩鶴じゃなくて“自分の立ち位置”だ」
一は理解できない。
できないから、苦しい。
「立ち位置……?」
「幼馴染としての距離。恋人としての距離。他人としての距離」
佐藤は机に指で三つ線を引く。
「どこに立つか決めろ。詩鶴をどうするかじゃなく、自分がどこに立つか」
一は、その日も答えが出なかった。
持ち帰って、考えた。
考えて、分からなくなった。
詩鶴を見かけた。
廊下で、亮太と笑っていた。
以前なら胸が裂けた。
でも今日は、裂ける前に思考が入った。
(……俺は、何を怖がってる)
詩鶴を失うことか。
自分の価値がなくなることか。
幼馴染の“物語”が終わることか。
そのどれもだ。
だから、一は逃げ続けていた。
放課後、また佐藤に会う。
「俺……怖いんだと思う」
佐藤は頷く。
「何が」
「俺が詩鶴を“家族みたいなもの”って言ってたのが、
結局ただの言い訳だったって認めるのが」
佐藤は少しだけ目を細めた。
「だいぶ近くなったな」
一は胸が苦しくなる。
近いのに、まだ分からない。
佐藤は言う。
「家族みたい、って言葉は綺麗だ。でも綺麗な言葉に隠れて、自分の欲を見ないふりすると詰む」
一はうなずく。
うなずくしかない。
朝、駅で詩鶴と亮太を見た。
詩鶴が少し遅れて来て、亮太が笑って待っていて、
二人が自然に並ぶ。
心臓はまだ痛む。
でも、痛みが“悲鳴”じゃなく“鈍痛”になっていた。
(……夫婦みたいだな)
そんな感想が先に出て、自分で驚く。
昼休み。
詩鶴が亮太に小突かれて、頬を膨らませて、周りが笑う。
以前なら「俺の詩鶴が」みたいな嫉妬が湧いた。
でも今日は違う。
(……俺、あの輪の外にいるんだな)
外にいることが、悲しみではなく“事実”として受け入れられる。
その瞬間、胸の奥が軽くなった。
一は、自分でも分かるほど自然に笑っていた。
その笑顔を見た詩鶴が、固まる。
(……え)
詩鶴の目が揺れる。
“不安”に変わる揺れ。
亮太は違った。
満足げに口の端を上げる。
(勝った)
そう言っているようだった。
——でも一は、もうその勝敗すらどうでもよかった。
放課後、佐藤に言った。
「……俺、決めた」
「何を」
「何もしない」
佐藤は一瞬だけ目を細め、すぐに頷いた。
「“逃げ”じゃないやつだな」
一は息を吐いた。
「うん。未練で何もしないんじゃない」
「……親戚夫婦の幸せ願うみたいな感じだ」
自分の口から出た言葉が、
意外なほどしっくり来た。
——選ばなかったのではない。
選び直したのだ。
“意味”を変えた。
だから、今度は崩れない。
日曜の朝、護は一人で出かけようとしていた。
玄関で靴紐を結ぶ背中を見た瞬間、香織の胸がざわついた。
置いていかれる。
今日も“兄の人生”から排除される。
香織は、深呼吸もせず言った。
「私も行く」
護の手が一瞬止まる。
振り返らない。
「……好きにしたら」
拒否されなかった。
それだけで心臓が跳ねた。
(……行ける)
“許された”わけじゃない。
でも“拒絶されなかった”という事実は、香織にとって奇跡に近かった。
電車の中。
護は窓側に座り、黙ってスマホを見ている。
香織は隣で、言葉を探しては飲み込む。
「……最近、寒くない?」
「……別に」
「そう……」
沈黙。
服屋に入る。
「これ、どう?」
香織が鏡の前で軽くスカートを摘む。
護は視線だけ向ける。
「……似合う」
声は平坦。
褒めているのか、確認しているのか分からない。
香織はそれでも頷く。
(返ってきた。言葉が)
アクセサリーショップ。
「このピアス……変かな」
「……悪くない」
ゲームセンター。
「ここ、寄っていい?」
「……好きにしたら」
どれも同じ。
温度がない。
それでも香織にとっては、同じじゃ、ない。
“ゼロ”だったものが、“一”になる。
その“一”が、どれほど大きいか。
香織は知っている。
死にかけた人間が、空気を吸えるようになる感覚を。
それを奪ったのが自分だという罪悪感も。
だから、尚更。
(今日、少しでも……)
少しでも、護の中の“拒絶”が薄まってくれたら。
そう願ってしまう。
クレーンゲームの一角。
ガラスケースの中に、それはあった。
ずっと欲しかった限定版。
通常版よりも色が淡くて、目の刺繍が違う。
入荷が少なく、近所の店では見かけなかった。
香織は、喉が熱くなる。
(ある……)
小さく息が漏れる。
「……あれ」
指を差した声が震える。
護は、ケースを見る。
「欲しいの?」
「……うん」
香織は硬貨を入れる。
アームが下りて、掴めず、落ちる。
もう一回。
また落ちる。
胸が焦げるように悔しい。
でもそれ以上に苦しいのは、護の時間を奪っているという感覚だった。
(やめた方がいい……でも)
やめたら、今日が終わる。
終わったら、また“何もない日常”に戻る。
香織は続けた。
三回目。四回目。
アームの角度を変え、位置をずらし、それでも取れない。
「……ごめん」
香織は、護に謝った。
謝る声が、幼い頃みたいに弱くなる。
護は何も言わない。
ただケースを見ている。
香織の喉が詰まる。
(……やっぱり、迷惑だよね)
香織が硬貨を握りしめた、そのとき。
護が、前に出た。
香織の手から硬貨を取るでもなく、
自分のポケットから出した硬貨を投入する。
コントローラーに手を置く。
指が、迷わず動く。
香織はその横顔を見て、息を止めた。
(……嘘)
護が“自分のために”動いている。
その事実が、信じられない。
アームが下りる。
掴む。
——ずるり、とぬいぐるみが傾く。
次の瞬間、落ちた。
出口へ。
景品口に、限定版が転がり落ちる。
香織は、音が聞こえなかった。
目の前が白くなる。
護が景品を拾い、香織に差し出す。
「はい」
香織の手が震える。
受け取った瞬間、ぬいぐるみの柔らかさが掌に伝わる。
その柔らかさが、香織の胸を裂いた。
(……なんで)
今まで、あんなに拒絶されてきた。
毎日、無視されて、受け取ってもらえなくて、
言葉も温度も返ってこなくて。
それでも諦められなくて、それでも追いかけ続けて。
その果てに、今。
護が、たった一回で取った。
香織の視界が滲む。
(やっと……)
言葉にならない。
喉が震えて、息が吸えない。
“何年も戦地にいた人が帰ってきた”
そんな比喩が、香織の中で現実味を持ってしまう。
帰ってきたのに、まだ抱きしめてはいけない。
でも、確かにそこにいる。
「……すごい」
やっと出た言葉は、それだけだった。
護は淡々と答える。
「時間かかりそうだったから」
香織は、その言葉すら都合よく解釈してしまう。
(時間をかけたくなかった、じゃない)
(“私ががっかりするのが嫌だった”かもしれない)
そう思ってしまう。
思いたい。
護の声はいつも通りだった。
表情も、いつも通りだった。
でも香織にとっては、違った。
胸の奥に、冷え切っていた場所に、小さな火が点いた。
それがどれほど危うい火でも、香織は抱きしめるしかなかった。
(……進展した)
進展なんて言葉じゃ足りない。
「まだ終わってない」
「まだ死んでない」
そういう種類の救いだった。
はたから見れば、映画のワンシーンみたいな兄妹だった。
俳優のような横顔の兄と、女優みたいな妹。
でも香織だけが知っている。
この幸福が、どれほど薄い氷の上にあるか。
そして——
その氷を壊したのが、他でもない自分だということを。
最初に気づいたのは、詩鶴だった。
それは、視線だった。
一が、こちらを見ていない。
正確には――見ているのに、触れてこない。
廊下ですれ違ったとき、いつもなら一瞬だけでも視線が絡んでいた。
それが、なかった。
詩鶴は無意識に足を止め、ほんの少しだけ振り返る。
一は、佐藤と話していた。顔は穏やかで、でもどこか遠い。
(……気づいた?)
胸の奥が、ひくりと鳴る。
いや、そんなはずはない。
見られていない。
あのとき、ちゃんと隠した。
詩鶴は自分に言い聞かせる。
(私、変なこと考えてるだけ)
でも、その“だけ”が、胸から離れない。
一方で亮太は、違った。
同じ光景を見て、亮太は口の端を上げる。
(……あー、完全に折れたな)
一の表情は、亮太にとって“敗北の顔”に見えた。
怒りも嫉妬もない。
ただの、距離。
亮太はそれを、諦めと判断した。
自分が勝った、という確信。
詩鶴が隣にいる。
触れられる。
笑う。
それで十分だった。
詩鶴は、朝から落ち着かなかった。
一の姿を探してしまう。
探して、見つけて、見つけた瞬間に“何も起きない”ことに胸がざわつく。
昼休み。
一が、詩鶴と亮太を見て、笑った。
その笑顔が、妙だった。
柔らかい。
でも、向けられていない。
詩鶴は、指先が冷たくなるのを感じた。
(……なんで)
嫌われた?
怒ってる?
それとも――もう、どうでもいい?
どれも、怖い。
亮太は、その笑顔を別の意味で受け取る。
(余裕ぶってんのか?)
だがすぐに否定する。
余裕があるなら、近づく。
言葉を投げる。
存在を主張する。
でも一は、しない。
(……負けを受け入れただけだな)
亮太はそう結論づけ、詩鶴の肩に自然に手を回した。
詩鶴は、その手を振り払わなかった。
振り払えなかった。
でも――その感触が、以前より“重い”と感じてしまう。
詩鶴の不安は、形を持ち始める。
一が、優しくなった。
話しかければ、普通に返す。
視線を合わせる。
でも、踏み込まない。
それが、いちばん怖い。
(……何も、期待されてない)
その感覚は、拒絶よりも深く、
怒りよりも静かだった。
詩鶴は、帰り道で立ち止まり、
スマホを握りしめる。
連絡しようか。
何か言おうか。
――でも、言えない。
何を言えばいいのか、分からない。
一方で亮太は、完全に安心していた。
一が介入しない。
視線も、言葉も、奪おうとしない。
(もう、終わった話だ)
亮太はそう判断し、詩鶴との距離を詰めることに躊躇しなくなる。
詩鶴の沈黙を、“自分に傾いている証拠”だと解釈して。
その解釈が、詩鶴の不安を、さらに深くする。
勝利を確信する者と、失う予感を抱く者。
同じ違和感が、真逆の感情へ分岐していった。
家に帰ってからも、香織はぬいぐるみを手放せなかった。
ベッドに座り、膝の上に置き、何度も撫でる。
指先に伝わる柔らかさが、現実だと教えてくれる。
(……取ってくれた)
その事実が、何度思い返しても信じられない。
拒絶されてきた。
無視されてきた。
受け取ってもらえなかった。
それなのに。
あの手が、迷いなくコントローラーを掴んだ。
香織は、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。
(やっと……)
声に出すと壊れそうで、心の中で何度も繰り返す。
やっと。
ようやく。
ここまで来た。
でも同時に、冷たい現実が頭をよぎる。
(……でも、これは)
優しさ?
それとも、ただの効率?
護は何も言わなかった。
説明もしなかった。
だから香織は、自分の都合のいい物語を紡いでしまう。
(私が悲しそうだったから……)
(私を放っておけなかったから……)
そうであってほしい。
そうでなければ、このぬいぐるみを抱いていられない。
香織は、ぬいぐるみを胸に押し当て、丸くなる。
まるで、戦争から帰ってきた人を抱きしめる夢を見ているみたいに。
帰ってきた。
でも、まだ触れてはいけない。
その距離が、余計に胸を締めつける。
(……私、まだ許されてない)
分かっている。
だからこそ、今日の“進展”が、涙が出るほど嬉しかった。
香織は、ぬいぐるみの耳に顔を埋める。
(お願い……)
(もう一度だけでいい)
(昔みたいに、名前を呼んで)
返事はない。
今日も、ない。
それでも香織は、その小さな柔らかさを、希望だと思うことをやめられなかった。
――それが、どれほど脆い希望でも。
朝は、どの家でも似た匂いがする。
焼けたパン、湯気の立つ味噌汁、洗剤の香り。
違うのは、その匂いの中に混ざる“安心”の濃度だけだ。
宮野家の玄関で、一が靴を履く。
いつもなら、もう少し手間取る。靴紐を結び直したり、鞄の肩紐をずらしたり、忘れ物を気にしたり――一はそういう、少し不器用なところがあった。
今日は違った。
靴を揃え、鞄を持ち、立ち上がる動作が早い。
無駄がない。
まるで「会社に向かう大人」のように、必要な動作だけで家を出る。
一の母は、台所の流しの前で手を止めた。
洗いかけのコップの縁から水が落ちる。ぽた、ぽた、と。
(……今の、なんだろう)
言葉にはならない。
息子が大人びた? 成長した?
それだけではない、どこか“距離”がある。
それを、一の父も感じていた。
玄関から一の背中を見送るとき、背筋がわずかに冷えた。
(取引先の担当と話してるみたいだ)
そんな、職業染みた感覚。
息子を相手に思うことじゃないと分かっている。
分かっているのに、浮かんでしまう。
一方、神薙家でも同じ朝があった。
詩鶴は「いってきます」と言う。
声はいつも通り柔らかい。
でも、目が落ち着かない。
玄関で靴を履く間にも、何度もスマホを見る。
見ては、画面を暗くして、また見る。
詩鶴の母は、笑って誤魔化した。
「なぁに? 朝から忙しい子ねぇ」
「う、ううん。何でもない」
詩鶴は笑う。
笑うが、その笑顔は“遅れてくる”ように見えた。
詩鶴の父は、言わずに飲み込んだ。
(焦ってる……?)
理由は分からない。
ただ、娘の呼吸が浅い。
背中が少し張っている。
まるで「何かに追われている人」の姿勢だった。
そして――二人の親が本当に違和感を覚えたのは、外だった。
宮野家の前で、一が歩く。
神薙家の前で、詩鶴が追いつく。
二人が並ぶ。
後ろから見れば、いつも通りに見える。
幼馴染の二人が、仲良く登校しているだけ。
だけど。
両家の親は、同じ瞬間に同じ感情を抱いた。
(……近いのに、遠い)
肩が触れそうな距離なのに、触れていない。
歩幅は揃っているのに、呼吸が揃っていない。
言葉は交わしているのに、声の温度が重ならない。
瞬きをすれば見逃してしまう。
親友でも気づけない。
それを、親だけが見抜く。
育ててきた年数と、親としての勘が、微細なズレを拾う。
二人の背中が角を曲がって消えたあと、
宮野家の母は、無意識に自分のエプロンの端を握りしめていた。
「……ねえ」
一の父も、玄関のたたきを見たまま、低く言った。
「気づいたか」
二人は目を合わせた。
言葉にした瞬間、現実になってしまう気がして、怖い。
それでも――この違和感は放置できない。
その日の昼前、宮野家と神薙家は連絡を取り合い、神薙家で顔を合わせることになった。
一の父が先に頭を下げた。
「神薙さん、急にすみません」
詩鶴の父も深く頷く。
「いえ、こちらこそ……宮野さん」
互いの妻たちも、同じ呼び方で挨拶を交わす。
名前を呼ばない。
長い付き合いでも、礼儀を崩さない。
それが二家族の“距離の正しさ”だった。
沈黙が少し続いて、一の母が先に口を開いた。
「……変だと思いませんでした? 最近」
詩鶴の母は一瞬目を瞬かせ、頬に手を添えた。
「変、って……何が?」
一の母は、言葉を選ぶようにゆっくり続けた。
「うちの一、最近……落ち着きすぎてて」
「落ち着きすぎてる?」
詩鶴の母が聞き返す。
その声には、まだ“ピンと来てない”温度がある。
一の父が、喉を鳴らして言った。
「……俺は、変だと思った」
自分で言って、苦く笑う。
「息子に向かって、こんなこと言うのもどうかと思うが」
詩鶴の父が眉を寄せる。
「宮野さん、遠慮せず言ってください」
一の父は、一度息を吸った。
「……会社の取引相手と話してるみたいなんです」
言った瞬間、胸が締め付けられる。
父親が息子を“取引相手”に例えるなんて、どれだけ奇妙か分かっている。
それでも、この違和感は消せない。
一の母が頷く。
「そう。……まさにそれに近いです。
最近、反抗期っていう反抗期がなくて。むしろ、家事を手伝ってくれたり、先回りして動いたり」
一の母は苦笑する。
「優しい子だから、もともとそういうところはあったんですけど……最近のそれは、優しさっていうより……」
言葉が見つからない。
詩鶴の父が補った。
「“整ってる”感じ、ですか」
一の母は、それだ、と頷いた。
「そう、“整ってる”。まるで、感情を片付けてから動いてるみたいな」
詩鶴の母は、まだ首を傾げたままだった。
「……詩鶴は、うちは……そこまで」
けれど、詩鶴の父が静かに言う。
「いや。俺は少し思ったぞ」
詩鶴の母が驚く。
「え?」
「最近、詩鶴が……焦ってるみたいに見える日がある」
詩鶴の父は、自分の手を握って開く。
言語化していくように。
「落ち着きがないってほどじゃない。
でも、目が忙しい。息が浅い。……それでいて、理由を言わない」
一の父が、ゆっくり頷いた。
「……二人の間で、何かあった可能性が高い」
四人の目が自然に合う。
同じ結論へ、同じ速度で辿り着いている。
一の母が言った。
「喧嘩、でしょうか」
詩鶴の母が言った。
「でも、見た目は仲良く歩いてた……」
一の父が首を振る。
「表面が整ってるからこそ怖いんです」
詩鶴の父が低く言う。
「じゃあ、本人に聞くしかないな」
一の母は頷き、決意するように言った。
「……帰宅したら、話しましょう。普通に、心配として」
詩鶴の母もようやく不安が顔に出た。
「……詩鶴、何か隠してるのかな」
四人は、同じ方向を見た。
子どもたちを守りたいという一点で。
夕方。帰宅の音が二つ、別々の家で鳴った。
宮野家では、一が居間に顔を出すと、一の母がすぐ笑った。
「おかえり。一、ちょっとお茶でも飲む?」
「うん」
その返事が、また整っている。
一の父は新聞を畳みながら、さりげなく言った。
「学校、どうだ」
一は椅子を引き、きちんと座る。
「普通だよ」
普通。
その言葉ほど、親を不安にさせるものはない。
一の母が優しく言った。
「最近、一、疲れてない?」
「疲れてない」
即答。
迷いがない。
一の父が続ける。
「何かあったなら、言え。喧嘩でもしたか?」
一は少しだけ笑う。
「喧嘩とかじゃない。クラスも……まあ普通。佐藤と話すことは増えたかな」
話す内容が“適度に具体的”で、嘘に見えない。
だからこそ怖い。
楽しい学校生活。
三人の仲睦まじい関係。
そんなふうに“見える”ように並べられている。
一の母は、胸の奥が冷えるのを感じた。
(この子、私たちを安心させようとしてる)
優しさが、逆に壁になっている。
一方、神薙家。
詩鶴は帰宅しても、靴を揃える手が少し乱れた。
「ただいま……」
詩鶴の母が笑う。
「おかえり。詩鶴、今日どうだった?」
「うん……普通」
普通、が出た。
詩鶴の父はすぐに続けた。
「一くんと、何かあったか?」
「えっ……」
詩鶴の声が上ずる。
詩鶴の母がその反応に息を止める。
「な、なにもないよ……?」
曖昧だ。
否定の形はしているのに、“間”が長い。
詩鶴の父は穏やかな声で言った。
「ならいい。ただ、最近少し……お前、焦ってるように見えたからな」
詩鶴は笑った。
笑ったが、目が泳ぐ。
「そんなこと……ないよ」
嘘だ。
親には分かる。
その夜、両家は確信した。
何かあった。
しかも、子どもたちが“普通の心配”では口を割らない類のものだ。
翌朝、また二人を見送る。
後ろ姿は整っている。
整っているのに、昨日よりも“遠い”。
宮野家の母は言った。
「……昨日、一、私たちを安心させようとしてた」
一の父が頷く。
「嘘が上手い」
その言い方に、母が胸を痛める。
「上手くなってしまった、のよ」
神薙家の前で、詩鶴の父が言った。
「詩鶴は逆に、隠すのが下手だな」
詩鶴の母が不安げに答える。
「ねえ……詩鶴、何してるの……?」
昼前、公園で再集合。
「宮野さん」
「神薙さん」
呼び方は変わらない。
ただ、声に硬さが混ざった。
宮野家が昨夜の会話を伝える。
神薙家が昨夜の反応を伝える。
四人の結論は、話し合うまでもなく一致した。
「人間関係で、何かあった」
「いじめじゃない」
「……それより、もっと根が深い」
一の母が、静かに言った。
「……一から聞き出しましょう」
一の父が少し眉を寄せる。
「正面から聞いても、あの子は守りに入る」
一の母は、そこで淡く笑った。
「分かってる」
その笑顔に、一の父が嫌な予感を覚える。
「まさか……」
一の母は頷いた。
「社会で身につけた、“必殺技”があるの」
詩鶴の父が固まる。
「必殺技……ですか?」
詩鶴の母が戸惑う。
「その必殺技……とは?」
一の父が観念したように呟く。
「……あの手か」
一の母は、にっこり笑った。
「泣き落とし」
詩鶴の父が思わず言う。
「いや、泣き落としって……子ども相手に……」
一の母は真顔になった。
「子ども相手だからこそ効くの」
一の父が肩を落とす。
「……もしかして俺もやるのか?」
一の母は頷く。
「もちろん。あなたも泣くの」
一の父が呻いた。
「俺、泣くの下手なんだが……」
一の母が即答する。
「大丈夫。演技はいつだって、気合よ」
神薙家は、もはや止められなかった。
止めるより、結果を見守るしかなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます