忘却の嬰児

夏目凪

 どうやら、僕が警察に発見された時、僕の手には血まみれの包丁が握られていたらしい。そこには死体どころか血痕すらなかったのに。


「お兄ちゃんたち付き合ってるの?」

「えっと……」

 少年は僕らのことを指さして言った。母親が謝って、何度も頭を下げながら隣の車両に移動する。

 雪が降っている。北海道の電車の仕組みに戸惑っている観光客が丁度降りた頃、電車はまた走り出した。僕の隣には友が座っていてその顔は憔悴しきっていたのだが、僕の肩に預けられた頭と静かな寝息は穏やかであった。ちらりとそちらを伺えば僕の袖をつい、と引いている。

 彼は、非常に女らしかった。いや、生物学上も本人の心も男ではあるのだが、遠目に見ると女に見えた。伏せがちな目や腰の方に乗った重心が女性を思わせるのだ。本人に聞いても知らないの一点張り。そのうち僕が折れた。思えば、彼に都合の悪いことを聞かれたことは一度もなかった。

 電車には僕と彼の二人だけだった。少し考えるとこの旅行も変だった。彼が急に北海道へ行こうと言い出した。行きたいところがあるのだと。彼の唐突な旅には目的のないことが殆どだった。だから僕にはそれが不思議だった。

 どこに行くのか聞けば、楽しみにしてろと言われた。何をするのか聞けば、僕らの将来に関わることだと言われた。あんなにも楽しそうで、戸惑っている彼を見るのは初めてだった。

 彼は目を覚ました。そして窓の外の景色を見てそろそろかと言った。僕には全く同一の銀世界にしか見えない。

「降りるぞ」

 僕と彼は遠軽駅で降りた。彼は勝手知ったるように駅構内を歩いた。だから僕は、のろのろとその後ろをついて行った。吹雪で霞む視界と、敏感に冷たさを感じる指先が記憶を掘り起こすようだった。水の入ったビニルみたいな気持ち悪い感触がどうにも苦手で、だから夏の水風船も、グミの皮だけ硬いのも、気が遠くなるような心地を覚える。僕は寒さに、ポケットの中で自分の手を握りしめた。手の母指球やら小指球やらなんてものは、それこそ僕の嫌いなビニルのような触り心地がした。固く、キツく握ったけれど、その感覚は消えるどころかより一層強くなるだけであった。

 改札を抜けた。僕はSUICAを使ったけれど、彼は切符を通した。彼は地方へ行くと決まって切符を買った。それがいつもの拘りだった。

「流石に寒いな。なにか飲むか」

 そう言った彼は僕の返事も聞かずに、自販機でコーヒーを二つ買った。苦手だと文句を垂れれば、要らないのかと揶揄うのでやはり必要だと言って受け取った。受け取る瞬間、指先が触れる。彼の表情が一瞬歪む。

「ありがとうございます」

 その気まずさを埋めるように礼を言った。缶を開けて傾ければ苦く熱い液体が喉を焼いていく。苦味というのは舌ももちろん攻撃するのだが、喉にも強く不快感を残していく。缶の表示を見てみればそれはブラックコーヒーだった。どうやら僕は彼に嵌められたらしい。だが、口をつけたものを返すわけにもいかず、渋い顔をしながら飲んだ。彼は嬰児を見守るように穏やかな目を向けていた。

 空き缶を捨てて駅を出た。駅の外は白く染まっていた。この北海道旅行で、僕は人生初の銀世界に何度も出会っていた。それは嬉しくも怖くもあった。ただ、自然に対する畏怖の念を拭えずにいた。

 彼の僕への扱いは子どもへのそれだった。今も、雪に怯える僕の頭を撫でている。クラスの馬鹿な女子が騒ぐから辞めてくれと言ったこともあるが、彼は全く聞く耳を持たず、ただ女子の群れをひと睨みしただけだった。それも結局は火に油を注ぐだけで現状の変化は起こさなかった。僕たちは友人であり、そして僕は彼の弟のようでもあった。彼の家族構成を聞いたことは無かったけれど、彼に兄弟がいる気配はなかった。だから弟が欲しかったのかもしれない、とも思った。それからは拒むことなく好きにやらせている。それで気が済むのなら、まあいいか、という気持ちになったのである。

 僕らは大雪の中を歩き出した。彼によると、旅館は駅から少し離れた場所にあるらしい。

 二人分の足音は柔らかい雪に吸収されて聞こえなかった。一日分だからとリュックサックに入れた荷物が重く、そもそも雪道に慣れず転びそうにもなるため、やはり僕はのろのろと歩くしかなかったのだが、それに比べて彼の足取りは軽やかだった。僕をおいて先へと歩いていってしまう。

「何か話すか?」

 僕は彼を睨んだ。雪に慣れていないこちらは転ばないようにすることだけで精一杯だ。それ以上のことを考える余裕はない。けれど、そんな僕を彼は笑い飛ばした。

「じゃあ、何か質問とか受け付けてやるよ。秘密主義の俺が何でも答えてやる」

 背中が大きく見えた。やはり今は男らしかった。

 ならば、どうして女らしく見える時があるのか、とか。もしかして僕の過去について何か知っているのか、本当は何でこの旅行を企画したのか。聞きたいことはあったけれど、それらは全て白い息に消えていった。僕には傷ついてまで彼との距離を詰める勇気がない。結局、なんで切符を買うのかという馬鹿みたいに下らないことを聞いた。彼は困ったように笑った。

「いやあ、父親が時々俺の履歴確認するんだよなあ。お前に言うのも悪いけど、それはそれで大分面倒だぜ。まあ、飯と金をくれっから十分ではあるんだけどな」

 彼のこういうあっけらかんとしたところが傍に居やすい。僕に起こった不幸も、自分に起こった不幸も、この世にある事象のただの一つとして扱う。本当に、「ああ、今虫歯なんだっけ。悪いな、目の前でどら焼きを食っちまって」というくらいのテンションなのだ。それは過剰に気を使われるよりも、ずっと楽だった。

 それは面倒だとぼんやり賛同した。彼女に毎日の報告をすることすら嫌だった僕にはどう頑張っても無理な話である。ちなみにその女は彼のことを好きだと言って僕を振った。ああ、思い出したらまた怒りが湧いてきた。女ってのは身勝手だ。元カノも、僕の母親も。

 いや、そう見えているだけか。そういえば、僕は一度しか会ったことがないがあれはヤバい父親だった。クソを詰め込んだ父親だった。こう考えてみると、やはり女も男もあまり変わらないかもしれない。

 彼の輪郭は雪でぼやけていた。雪の中に一人取り残されたような不安を覚えた。彼が僕を捨ててどこかへ行ってしまうはずもないのに。

「そろそろ着くぞ」

 彼はこちらに振り向いた。確かに道の先に旅館らしき大きな建物が見えた。

 ようやく宿に着いた頃、雪は小降りになっていた。宿の前で体に着いた雪を払い落としてから自動ドアをくぐった。入ってすぐ横には怖い顔をした木彫りの熊が天井を見つめていて、僕たちはその横を通った。あの熊は今にも動き出してしまいそうなほどの迫力があった。

 もう一つの自動ドアをくぐれば、そこは外の雪景色とは隔絶された場所だった。木目調の床からは木の温もりが感じられ、天井から降り注ぐ光は橙色に華やいでいた。率直に、高そうな宿だなと思った。

「ああ、坊っちゃん。おかえりなさいませ」

 奥から出てきた女将さんが恭しく頭を下げた。彼が、照れた顔をする。

「よせよ。もう家は出たんだ」

 どうやら彼はこの宿の女将さんと知り合いらしい。でも、彼は帰省する時も東京都内にいるので、もしかしたら親はいくつかの宿を経営するオーナーなのかもしれない。少なくとも、この宿の息子というわけではなさそうだ。

 彼と女将さんは僕をおいて話し始めて、さながら友達の友達に会ったような気分になった。気まずいあの空気感はいくつになっても慣れないものだった。尤も、話している二人に周囲は見えていないのだから、気まずさを覚えているのは僕だけなのだろうけど。

 彼の表情はくるりくるりと変わった。僕といるよりも、楽しそうだななんて、思ってしまった。ネガティブの種は芽を出して、不和の果実を作る。

「お兄様とは仲良くされていますか?」

「あー、まだ喧嘩中だから」

 ああ、兄弟いるんだ。

 僕は知らない。彼のことも、僕自身のことも。覚えている過去の隙間にノイズが入って、忘れてはいけないことほど霞のように掴めない。母の優しさの面影も、その母の隣にいた男の人のことも、そして、警察に見つけられる前のことも。何があったのか、僕は知らない。警察に見つけられる以前は、そんなことはなかった筈だが気が付けばこの体質になっていた。

 口から吐く息はとっくに透明になって空気に溶ける。彼がこちらを見ることはない。喉の奥でコーヒーの苦味が迫り上がってくるような心地を覚えた。舌の根本がじんとした。やはりそれは嫌いな苦さであった。

 朧気な正体が目の前で揺蕩っている。そういえば、彼の名前は何だっただろうか。

「悪い、部屋に行くか」

 だいぶ時間が経ったあと、まあそれは心理的にそう感じただけかもしれないが、彼は指先で鍵をくるくると回して戻ってきた。無骨な鍵についた大きめの部屋番号の刻まれた札が、彼の手の甲に当たって音を鳴らした。放置されたとか、その時の気まずさだとかはどこかへ行って、不器用だなあという感想だけが残った。札が手の甲に当たる毎に鍵が止まり、また勢いをつけて回し始める姿が滑稽だった。

 エレベーターがチンと鳴って止まった。それに二人で乗り込めば、二人には広いエレベーター内に足音が響いた。

 その部屋は畳の匂いよりも先に、煙草の匂いがした。どうやら喫煙部屋を予約したらしい。僕はもちろん、彼だって煙草は吸わない。

「悪いな。喫煙部屋しか空いてなかったんだ。想像以上にキツイな。この部屋」

 僕は大丈夫と言いつつ苦笑いした。こういう部屋は長年で染み付いた煙草の匂いが取れなくなっていて、逃げ場はない。扉を開けた瞬間から煙草の匂いが漏れ出てくるのだから、正直辛かった。鼻の奥が痛い。

「俺は下のコンビニに何か買いに行くけど、お前も行くか?」

 首を横に振れば、彼はさっさと部屋から出ていった。

 肩から鞄を下ろした。思いの外、初めての大雪に疲弊していたようで、欠伸が出る。眠い体で机を端に寄せ、押し入れから布団を出してそこに敷いた。僕はすぐに眠りに落ちた。

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