第38話 盟誓


 万年桜の内側は別の世界のようだった。


「桜の中って、こんなに綺麗なんですね」


 奈珠那が小さく呟く。目の前には、空も地も見分けがつかないほど薄桃の花弁が広がっていた。舞い落ちる花は風に逆らうこともなく、さらさらと光をまとっている。

 

「……そうだな」


 応える瓊環の声はいつもよりも低く、穏やかだった。


 奈珠那と瓊環は、万年桜の太い枝に並んで腰掛けている。一面に花弁の海が続き、見上げても、見下ろしても、桜しかない。瓊環と世界に二人きりになったみたいだった。


 唇に残るかすかな熱が、まだ消えずにいる。あれは夢ではなかったのだと、奈珠那はゆっくりと息を吐いた。


「私……神様になったんですね」


 言葉だけが桜の中に落ちる。

 奈珠那は自分の手のひらをじっと見つめた。手先は以前と同じように、血の温もりを伝えている。胸が高鳴ることも、世界が一変した感覚もない。

 思い描いていた「神」という存在は、もっと偉大で、すべてを超越していると思っていたのだが、驚くほど何も変わっていなかった。


 ただ、身体は確かに軽くなっていた。しがらみから解き放たれた開放感と相まって、夜風に乗り、空の彼方までふわりと漂ってしまいそうな心地よい浮遊感がある。


「まだ完全じゃない。魂の輪郭が書き換えられている途中だな」


 瓊環の言葉に、奈珠那は「そうなんですね」と小さく頷いた。どうやら、まだ神になりきれたわけではないらしい。人としての生命を終え、神の器へと馴染んでいくまでの、あやふやで仮初めのような時間。それは、夜が朝に溶けていく瞬間に似ていると思った。

 

 夜も昼も存在しないかのように、淡い光が満ちている桜の中。奈珠那はその光に包まれながら、唇に残る熱とともに先ほど月夜の下で交わした契約の余韻をなぞっていた。


「瓊環様……私、夜は怖くて嫌いだったんです」


 奈珠那は、ぽつりと打ち明ける。

 

「暗くなると、考えなくていいことまで浮かんできてしまって。いっそ闇に紛れてしまいたいのに、それさえもできず、ただ膝を抱えて朝を待つだけでした」


 小さく息を吸い、言葉を探す。


「でも、瓊環様と出会ってから変わりました。夜が来ても怖くなくなったんです」


 一度視線を落とし、それからかすかに笑う。

 その間、瓊環は何も言わなかった。けれど、彼の視線は奈珠那から離れることはなかった。


「その日一日を思い返して……ああ、今日はこんなことがあったなって、温かい気持ちで目を閉じられる。そんな夜の過ごし方を、初めて知りました」


 奈珠那は顔を上げ、潤んだ緋色の瞳で瓊環をまっすぐに見つめた。かつて伏せがちだったその双眸は、いまや「瓊環」という光を映して、命を宿した宝石のように鮮やかに煌めいている。


「瓊環様……私に、こんなにも幸せな人生を与えてくれて、ありがとうございます」


 一点の曇りもない感謝の言葉に、瓊環の瞳がわずかに見開かれた。祈りでも崇敬すうけいでもない、純粋なまでの奈珠那の想いが、長い時を生きてきた神の心根こころねを揺らしたようだった。

 

「……お前が感じたものだ。俺が与えたわけじゃない」

「いいえ」


 奈珠那は首を振り、迷いなく言葉を重ねた。


「瓊環様が、私を選んでくれたからです」


 柔らかくて、陽だまりのような微笑みだった。見惚れたように、瓊環は一瞬言葉を失う。気づけば、彼の視線は奈珠那の顔をなぞっていた。


「綺麗だな」

「……え」


 不意にこぼれた声に、奈珠那は小首を傾げる。瓊環は慈しむように、彼女の白い頬にそっと手を添えた。指先から伝わるのは、有り余るほどの温もりと、離れがたい感触。


「お前の瞳も、髪も、表情も……全部、綺麗だ」


 あまりにも優しくかけられた言葉に、奈珠那の胸が強く鳴った。

 彼に触れられている場所から、じわりと身体中へ熱が広がっていく。瓊環の視線から、もう目を背けることはできなかった。

 

「こうして触れているだけで、満たされると思っていた」


 だが、と彼は低く息を吐いた。

 

「守りたい、だけじゃない。失いたくない。……奪われるなど、考えたくもない」


 満月の光を映したような瞳が奈珠那を射抜く。

 目の前にいる少女を決して手放すまいとする、揺るぎない意志が瞳の輝きの中に宿っていた。


「俺は、お前を欲している」


 孤高で高潔な神の一言が、奈珠那の胸を震わせた。驚きと戸惑い。そしてそれ以上に、どうしようもなく嬉しいという感情が一気に押し寄せる。

 あふれそうな思いはまぶたの裏側まで届き、視界がわずかに滲んだ。

 

「……瓊環様」


 奈珠那は吸い寄せられるように、自分から両腕を伸ばした。


「私も、同じです」


 迷うことなく、彼の頬を両手で包み込んだ。指先に伝わる熱を確かめるように、奈珠那はゆっくりと言葉を紡ぐ。


「神様だからじゃありません。助けていただいたからでも、契約だからでもありません。私は、ひとりの神として瓊環様の隣にいたいんです」


 彼と離れたくない。彼に触れていたい。生まれて初めて知った、奈珠那自身の独占欲だった。

 抑えきれずにこぼれた涙が頬を伝った瞬間、瓊環は耐えきれないとでもいうように奈珠那を強く腕の中へ引き寄せた。


「……奈珠那」


 噛みしめるように名を呼ぶ声が耳元に落ちた。


「俺も、神としてではない。契約の相手としてでもない。お前だったから……俺は、生きたいと思った」


 抱きしめる腕に、ぎゅっと力がこもる。奈珠那はその温もりを閉じ込めるように、瓊環の背にそっと腕を回した。

 

「お前を失う未来など、もはや考えられない」

「……はい」


 涙混じりに答えると、瓊環は少しだけ身体を離して奈珠那の涙の跡を丁寧に拭った。神の所作ではなく、ひとりの男が大切な相手を愛おしむような手つきで頬を包む。

 金の瞳が、世界のすべてであるかのように奈珠那を映した。

 

「愛している、奈珠那」

「はい……。私も、瓊環様を愛しています」


 言葉を交わした距離が、次第に近づいていく。瓊環は奈珠那を見つめながら、そっと彼女を引き寄せた。

 額が触れ、熱い吐息が肌を撫でる。顔が真っ赤になっても、瓊環の視線から離れるという選択は最初から存在しなかった。彼の隣こそが、自分の唯一の居場所。

 

 甘い桜の香りが吐息と混じり合った。

 ふうわりと重ねられた唇は、契約の印ではない。神として与えるものでも、奪うものでもなく、互いを想う気持ちがあふれた証だった。

 

 触れるだけの、やさしい口づけ。

 それだけで心も身体も境目を失って、彼の中へと溶けていきそうだった。

 あまりの幸福に奈珠那の指先が小さく震える。瓊環はそれをなだめるように、さらに優しく彼女の頬を撫でた。


「やっぱり、綺麗だ」


 蕩けるような甘い囁きが鼓膜を揺らす。桜の光に照らされた彼の瞳は、幸せを知って穏やかに微笑む奈珠那だけを映していた。


「いつか、奈珠那が完全な神になったら……」


 ほんの一瞬、彼は言い淀む。言葉を探すように視線を揺らしてすぐ、まっすぐに奈珠那を見つめ直した。

 

「そのときは、番になろう」

「はい」


 返事の直後、距離は自然となくなった。瓊環の手が奈珠那の背に回り、今度はためらいなく唇が深く重なる。

 花弁が触れ合う音と、ふたり分の鼓動の音だけが桜の内側に満ちていった。

 何の条件も、契約も、神としての義務もない。

 そこにあった温もりは、永遠よりも確かな誓いだった。

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