第1話 白蛇覚醒

2040年 某日 18:47 日本東京・神代スタジオ・最上階実験エリア


プログレスバーが終点に達した。

【『東京終焉』最終ボスシーン・レンダリング完了】

神代悠人は工学椅子にもたれかかったが、

視線はスクリーンから離さない。

画面の中央で、

純白の巨蛇が仮想の東京タワーに絡みついている。

これは、彼が一年を費やし、

この同時接続者数六千万のゲームのためにデザインした最終ボスだ。

同時に、彼が三年、毎夜目を閉じると見えるもの

───妹の神代鈴が最後に投げかけた眼差しでもある。

「先輩、データの安定性は確認できましたよ。」

副社長藤堂千夏の声が彼を現実に引き戻す。彼女はホットココアを机の隅に置き、栗色の長い髪が悠人の肩にかかる。

「ありがとう。ただ、退勤時間は社長って呼ばなくていいんだよ。」

「だって大学の時からスカウトしてくれたんですもの、先輩~」

千夏は微笑んだが、スクリーンを見た時、笑みがわずかに曇った。

「……やっぱり、あの『アラヤ』プロトタイプでレンダリングしてるの?」

「あれだけがプレイヤーの脳波を読み取って、

感情パラメータに変換できるんだ。」悠人は白蛇の目を指差した。

「ほら、普通のレンダリングじゃ、この眼は作れない。

これは鈴が───」

言葉は途中で詰まった。

実験エリアに短い沈黙が流れる。

千夏は唇を噛みしめ、小声で言った。

「三年経つのに、先輩はまだ……」

「……やめてよ。」

「先輩。」

千夏の声はさらに小さくなり、

彼の手元にあるヘルメットを見つめた。

「最近も……『クリエイター』でディープ・シンクしてる?」

悠人は答えず、

ただ窓の外を見つめた。


「研究部の最新レポート、見ました。」

千夏は一歩前に出て、珍しく強硬な口調で言った。

「表層シンクは構いませんけど、強制シンクだったら───」

「分かってる。」

「何が分かってるんですか!

安全閾値を超えて連続使用したら、

短期記憶から圧縮されて、次に感情関連の記憶が

───私たちのこと、

鈴ちゃんのことを忘れちゃうかもしれないんですよ!」

悠人はやっと振り返った。

実験室の冷たい光が彼の顔に鋭い影を落とす。

「千夏。」

彼の声は恐ろしいほど平穏だった。

「それを忘れる代償で、

鈴が生きている時の目をもう一度見られるんだったら、

俺がどう選ぶと思う?」

それは、全てのチップを賭けたギャンブラーの眼差しだった。

「テスト開始だ。クリエイターヘルメット起動準備。」

悠人は普段の、冷徹でほとんど無感情な表情に戻った。

その瞬間

───バン!

実験室のドアが勢いよく開けられた。

「社長!アラヤシステムが——

自律的に100TBの未知データをダウンロードしました!」

飛び込んできた新人プログラマーの顔は蒼白だ。

「都市の電力網を逆方向に呼び出してます!

ビル全体の消費電力が30秒で300%増加しました!」

「外部ネットワーク遮断!」

悠人は即座に立ち上がる。

「失敗です!どうやら……

生物電信号で接続を維持してるみたいです!」

言葉が終わらないうちに、

全てのスクリーンが同時にちらつき───


───16歳の神代鈴が、

病院の窓際に病衣を着て座っている映像で固定された。

夕日が彼女の髪を金色に染めている。

彼女は振り返り、

カメラに向かって微笑んだ。

それはアーカイブ映像ではない。

なぜなら、

画面の中の鈴が、唇を動かし、

無音で二つの言葉を発したからだ:

「お兄ちゃん。」

次の瞬間、画面は真っ暗になった。


警報が炸裂し、灯りは赤く変わった。

アラヤプロトタイプの外殻が熱を持ち始め、

冷却ファンが甲高い音を立てる。

「強制シャットダウン!」

悠人が叫ぶ。

「物理スイッチが全て効きません!」

千夏が電源コードを抜こうとしたが、

指がコンセントに触れた瞬間、感電して弾き飛ばされた。

「自己給電してる───まさか、あれは何!?」

彼女が窓の外を指さす。

東京湾の方角、夜空が銀白色に染まっていた。


18:50 レインボーブリッジ上空

橋上の車の流れがゆっくりと止まった。

誰もが空を見上げている───

───何かが「成長」して現れようとしている。

最初は虚空に蛇の輪郭が浮かび、

月光で描かれた素描のようだ。

そして輪郭が埋まり始め、八本の首が同じ胴体から伸び、

それぞれの先には威厳に満ちた蛇の頭がある。

最大のその頭の額には、

三日月の紋様が淡い金色の微光を放っている。

それが完全に顕現した瞬間、

時間が止まったかのようだった。

そして、その琥珀色の瞳が、

ゆっくりと東京湾岸のとある方向へ向けられる───

───神代スタジオをまっすぐに見つめている。

「あれ……あれは何なの!?」

千夏の声が震えている。

だが悠人は答えない。

彼はただ、窓の外の白い巨蛇を睨みつけ、

心臓が見えない手で強く握りつぶされる感覚を覚える。

ありえない。

これはゲームデータだ。

仮想のものだ。

自分が一行一行コードを書いて作ったボスだ。

だが今、それがそこにいる。

一呼吸ごとに空気に波紋を起こし、

一片一片の鱗が痛いほどにリアルだ。

「先輩……その目……」

千夏の声はさらに小さくなった。

「あなたを見てるみたい……」

悠人はやっと気づいた。

最大の蛇の頭が、

彼のいる窓を見つめている。

少なくとも三キロは離れているが、

その琥珀色の瞳は恐ろしいほどはっきりと見える。

記憶の破片が脳裏を刺す───


三年前。病院。

白いシーツ。

モニターの耳障りなフラット音。

鈴が最後に微笑んだ時、

精一杯見開いた、あの琥珀色の目。

「鈴……」

その名前が無意識に彼の唇から零れた。

まさにこの瞬間───

窓の外の白蛇が、

そのうちの一本の首を勢いよく前方に伸ばした。

攻撃ではない。

何か……もっと優しい動きだ。

遠くにある何かに触れようとするかのように。

その動きが大気をかき乱す。

衝撃波が肉眼で見える形で拡散し、

レインボーブリッジ上の車がおもちゃのように吹き飛ばされ、

東京湾には数十メートルの高波が巻き起こった。

「伏せろ!」

悠人が千夏を床に押し倒す。

次の瞬間、

強化ガラス窓が全て爆砕し、

風圧がガラスの破片を巻き込んで室内を襲った。

ビル全体が傾き始め、

金属が軋むような金切り声をあげる。

しかし混乱の中、

悠人の視線は白蛇から離れない。

割れた窓を通して、

彼はあの蛇の頭がまだ彼を見つめているのを目にする。

そしてその目尻に、

何かきらめくものが集まり、伝うのを見た。


涙だ。


月光に琥珀色の光を反射させ、

百米の高さから落ち、東京湾へと消える。

海水は瞬時に沸騰し、気化し、

巨大な白色の霧柱が立ち上った。

「泣いてる……?」千夏が呟く。

「怪物が……泣いてる?」

警報音に新しい音が混ざる───

パトカーのサイレンと、重いエンジンの轟音だ。

悠人はなんとか体を起こして通りを見下ろすと、

数十台の黒い装甲車が疾走してくる。

車体には三つの犬の頭を描いたエンブレムが印されている。

警視庁特殊事件対応課。

早すぎる───

異常なほどに。

課長の黒崎隼人が指揮車から飛び降り、戦術用サングラスを外す。

鷲のような鋭い目を現した。

36歳くらいか、短髪でさっぱりとしており、左頬に薄い傷跡がある。

「目標確認、異常実体コードネーム『白蛇』。」

彼は通信機に向かって冷たく硬い声で言う。

「脅威レベルは?」

「少なくともAA級、課長。」

分析員の声がせわしない。

「その存在自体が物理法則を歪めてます───」

「作戦案は?」

「高周波束縛網による物理的制限の後───」

「そしたらあのビルの人間は全員死ぬ!」黒崎が遮る。

「最上階に少なくとも二人いる。狙撃班、音響振動弾で目を狙え───牽制せよ。救助班、ビル突入準備。」

「課長!音響兵器の使用は未承認───」

「責任は俺が取る!」

命令が下る瞬間、六名の狙撃手が同時に発砲した。

銃声はなく、低周波のブーンという音だけが響く。

白蛇は攻撃を察知した。

しかし回避しない───

───三本の首が勢いよく振られ、

音響弾に正確に向かっていく。

衝突の瞬間、空中に六つのエネルギー火花が炸裂した。

「命中……だが無効!?」

「相殺じゃない。」黒崎は白蛇を凝視する。

「あれ自身の『存在強度』で受け止めたんだ。」

言葉が終わらないうちに、

白蛇が反撃した。

狙撃手たちに向けてではなく。

神代スタジオのビルに向けて───

一本の首が白い稲妻のように伸び、

巨口を開けた。

しかし噛みつかない。

ビルが完全に崩壊する直前、

蛇の頭の下顎で傾いたビル体をそっと支えたのだ。

信じられないほど優しい動きだった。


ビルの中の悠人は無重力状態を感じ、

傾きが止まったことに気づく。

崩れた壁越しに、すぐそばに白い鱗が見える。

一片一片が車ほどの大きさだ。

そして、あの蛇の頭がゆっくりと回転し、

琥珀色の瞳が再び彼と視線を合わせる。

今度は、距離二十メートルもない。

悠人は瞳に映る自分自身をはっきりと見ることができた。

鱗の一片一片に月光が流れる模様を見ることができた。

そして、その目に込められた、

言葉では言い表せない感情を感じ取ることができた

───困惑。悲しみ。

そして一抹の……なつかしさ。

まるで三年前、

病床の鈴が最後の力を振り絞って尋ねたあの言葉のようだ:

「お兄ちゃん、

もし私が別のものになっちゃったら……

まだ私のこと、わかる?」

あの時、彼はどう答えたっけ?

「お前が何になっても、

俺は必ずお前を見つける。」

記憶と現実が重なる瞬間、

悠人は本能的に床に落ちたクリエイターヘルメットをつかむと───

かぶった瞬間、レンズが光った:

【高感情共鳴ターゲットを検知】

【神経シンクロプロトコル強制起動】

【ユーザー:神代悠人|ターゲット:未命名生物実体】

【シンクロ率:100%(異常値)】


文字が高速で流れる。

悠人は考える暇もなく、

意識が本能で一つのコマンドを選んだ

───強制干渉。

【生体電束縛】

ヘルメットが眩い青い光を放つ。

光は数十本の電索と化し、

ビルを支えている白蛇の首に絡みついた。

白蛇の動きが一瞬止まる。

その瞳に一瞬……驚きが走る?

そして低い呻き声をあげる。

蛇の鳴き声ではなく、もっと人間の少女の嗚咽に近い声だ───

「……お……兄……ちゃん……」

声はとても小さかった。

風の音、崩壊音、警報音にかき消されそうになる。

だが悠人は聞こえた。

千夏も聞こえた。

下にいる黒崎も聞こえた。

時間が再び止まったように感じられた。

すると、白蛇の目に一瞬、苦痛が走る。

首を勢いよく引っ込め、ビルは再び崩壊し始めた。

しかし完全に退く前に、その尾の先で最上階の壁をかすった───

───一行の文字を残した。

日本語で、書きなぐったように歪んでいる。

文字を覚えたばかりの子供のようだ:


「ごめん まだ覚えてる」


次の瞬間、白蛇は八つの首をそろえて天を仰ぎ、

天地を揺るがす長い鳴き声をあげる。

音波は銀色の波紋となって拡散し、

東京湾の海水全てが巻き上げられ、空を覆う海嘯と化した。

そして白蛇自体は虚空に向かって泳ぎ去り、

身体は次第に透明になり、消散していく。

崩壊しそうなビルと、海嘯に脅かされる東京、

そして呆然と立ち尽くす悠人だけが残された。

彼の頭のクリエイターヘルメットのレンズはまだ点滅しており、最後に一行の文字を表示する:

【感情共鳴記憶フラグメントを受信】

【デコード中...】

【映像フラグメント:2037.03.17 15:23 第三病院 病室】

【人物:神代鈴(16歳)】

【状態:終末期前7時間】

【彼女は言った:「お兄ちゃん、もし私が、とってもとっても大きなものになっちゃったら……こわい?」】

【警告:短期記憶領域に異常上書きを検知】

【損傷フラグメントを隔離済み:神代龍之介(父親)が剣道を教える記憶(7歳)他5件】

悠人のこめかみに鋭い痛みが走る。

まあ、いい……

悠人はヘルメットを握りしめ、指の関節が白くなる。

彼は顔を上げ、白蛇が消えた夜空を見つめ、

自分にしか聞こえない声で言った:

「怖くない。だってお前だもの。」

下から爆破音が聞こえる

───救助班が入口を破壊した。

黒崎隼人の声が拡声器から響いてくる:

「上の人!動けますか!今すぐ上がります!」

千夏は這いずりながら立ち上がる

「先輩、私たちは───」

「千夏。」

悠人が彼女を遮り、異常に落ち着いた声で言う。

「二つ、やってほしいことがある。」

「え?」

「一つ、ビルを二棟見つけて、

会社の本社を仮設で再建してくれ。二つ目は……」

悠人は振り返り、レンズの奥の目が千夏がかつて見たことのない炎を燃え上がらせている。

「鈴の事故の前後の記録を全部調べてくれ。何もかもだ。」

悠人は一語一語区切って言った。

「三年前のすべてを、俺は再調査する。」

「でも先輩、どうして突然───」

「さっきのあいつが俺を見た目つきがな。」

悠人は一語一語区切って言う。

「鈴が俺を見る目と、そっくりだったからだ。」

窓の外、東京湾の海嘯が迫っている。

だが悠人の頭の中には今、あの琥珀色の目と、

あの無音の「お兄ちゃん」だけが残っている。

そして壁に、埃に埋もれていく一行の文字:


「ごめん まだ覚えてる」

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