第42話:旧アパートの心臓部と、完全なる防衛機構


コア部屋の中は、悪夢だった。


玲奈が斬り開いた肉の扉の向こうに広がっていたのは、俺の201号室の寝室をグロテスクに歪めた空間だった。


俺がかつて万年床を敷いていた6畳の和室。そのど真ん中に、直径2メートルはある巨大な水晶――ダンジョンコアが鎮座し、ドクン、ドクンと心臓のように脈打っている。


周囲を取り囲むように、四方の壁、天井、床、全てが肉塊と建材の融合体で覆われていた。畳のイグサが筋繊維のように変質し、ふすまの枠が肋骨のようにコアを守っている。天井からは鉄骨が突き出し、そこに絡みつく配管が静脈のように脈動していた。


そして、その隙間という隙間から高濃度の瘴気が噴き出し、部屋全体が白い霧の底に沈んでいる。視界が極端に悪い。三メートル先の玲奈の剣の輝きですら、瘴気に霞んで見えるほどだ。


「ポチ、結界を最大出力で維持しろ。俺の周囲の空気だけでも確保する」


『ワオォンッ!』


ポチの『神獣のオーラ』が黄金色に輝き、俺を包む半球の結界の中だけが清浄な空間を保つ。


コアが侵入者を検知した。


部屋の四方から、これまで戦ってきた全ての汚れが融合したキメラのような化け物が大量に湧き出し始めた。スライムの粘液がダニの多脚を生やし、パイプ・ワームの鋼鉄の装甲を纏っている。触手の先端からは高濃度の酸を滴らせ、一体一体がCランク相当の複合体だ。しかも、倒した端からコアが新しい素材を練り上げて次のキメラを生成している。残骸回収が通用しない。コアの直接生成は、ダンジョンの最終手段だ。


「来るぞ、剣姫!」


「はいっ!」


玲奈が超研磨のバフを全開にして、キメラの群れに斬りかかる。光を帯びた大剣が化け物を次々と両断し、防汚コーティングが酸を弾く。


だが、数が尋常じゃなかった。斬っても斬っても、壁の隙間から新たなキメラが這い出してくる。俺が残骸を【収納インプット】で回収しても、コアが直接生成しているせいか、再利用ではなく新規に湧いてくる。


しかもこの瘴気だ。俺がアルカリ洗剤を散布しても、中和した端から新たな瘴気が噴き出し、数秒で元の濃度に戻ってしまう。


防汚コーティングを施した大剣でも、キメラのヘドロと鉄錆の複合装甲を斬り裂くたびに酸が四方に飛び散り、瘴気が玲奈の肺を焼こうとしている。彼女の呼吸が荒くなり、踏み込みが浅くなっていくのが後方の俺にも見て取れた。先ほどまでの神がかった剣速が、瘴気のデバフで確実に削られている。


ポチの結界も、全方位からの攻撃を弾き続けた負荷で、黄金色の輝きが明滅し、直径が徐々に縮小していく。


ジリ貧だ。このまま消耗戦に持ち込まれたら、俺たちが先に潰れる。


俺は乱戦の中、歯を食いしばりながら思考を回し続けた。


(おかしい。中和剤の量は足りているはずだ。アルカリの散布量と、酸の発生速度を概算しても、本来ならとっくに瘴気は薄まっているはず。なのに飽和状態のまま変わらない。なぜだ?)


量の問題じゃない。ならば、環境の問題だ。


俺は部屋全体を見回した。この部屋は、俺の201号室の和室を模している。窓は? ない。元の和室にも窓はなかった。ドアは? 玲奈が斬り開いたが、背後からもキメラが押し寄せてきていて、事実上塞がっている。


完全な密室だ。換気ゼロの密閉空間。


(そうか……! 窓も換気扇もない、密室化された6畳間。空気が逃げる場所がないから、いくら中和しても瘴気がこの部屋に飽和し続けるんだ。風呂掃除でカビ取り剤を使う時と同じだ。換気をしないと、どんなに強い薬剤を撒いても揮発成分が部屋に充満して、むしろ状況が悪化する)


風呂場にも、キッチンにも、あのバカでかい換気扇のトラップがあった。ダンジョンは俺の部屋の間取りを忠実に模倣している。なら、この和室にも排気口があるはずだ。


(この部屋の『排気口』はどこにある!?)


俺は瘴気の向こうの天井を必死に見上げた。シーリングライトがあった場所の隣。かつてエアコンの室内機を据えていた壁の上部。俺はこの部屋に三年半住んでいた。天井の染みの数まで覚えている。だからこそ、この異変に気づけた。


あった。


旧アパートの換気ダクトを模した巨大な排気口が、天井の一角に存在していた。だが、その口は分厚いヘドロで完全に目詰まりしていて、一切の空気を通していない。


これだ。これが全ての原因だ。


「掃除の基本は『換気』からだ。空気が澱んでいる部屋に、綺麗な明日は来ない」


俺はリュックからスプレーボトルの残り全てを取り出した。中身を一本のボトルに限界まで圧縮して充填する。洗剤の残量は、もうこれが文字通り最後の一滴だ。出し惜しみは、ない。全弾をここに撃つ。プロの清掃員が、最後の一吹きに全てを賭ける。


「ポチ、剣姫のカバーに回れ! 俺は天井をやる!」


『ワフッ!』


ポチの結界が前方に移動し、玲奈を背後から守る形に展開される。その瞬間、俺の身体はポチの結界の外に出た。防毒マスクが瘴気のフィルターとして機能しているが、むき出しの腕や首筋がジリジリと焼けるように痛む。長くは持たない。十秒がリミットだ。それ以上は、俺のHPでは瘴気の腐食に耐えられない。だが、十秒あればスプレーのトリガーは引ける。清掃員の仕事に必要な時間は、それだけで十分だ。


俺は丸裸になった身体で、天井の排気口めがけて圧縮した洗浄液を構えた。


「そこを退け、換気の邪魔だッ!」


シュゴォォォォッ!!


圧縮した洗浄液が排気口のヘドロを直撃した。アルカリ性の高圧噴射が、分厚いヘドロの壁を内側から乳化・分解し、ボロボロと崩していく。分厚かったヘドロの壁に亀裂が走り、そこから光が――外の空気が漏れ始める。


そして。


ゴォォォッ!!


塞がれていた排気口が一気に開通し、外部の空気が滝のように流れ込んできた。


瘴気が吹き飛ぶ。白い霧が排気口に吸い込まれるように消え、濁った視界が一瞬でクリアになった。部屋の全容が露わになる。巨大なコアの水晶が、防御の霧を失い、内部に渦巻く紫色の光を丸裸にさらしていた。あれが、この街を飲み込もうとした元凶だ。


「剣姫ッ! 空気が通ったぞ! コアが丸見えだ!」


玲奈の目が鋭く輝いた。

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