仕事は順調。
家庭も穏やか。
そして京都には、自分を責めず、深く踏み込んでこない恋人がいる。
主人公は、誰かを捨てることも、何かを大きく壊すこともなく、器用に人生を渡っているつもりでした。
妻との結婚記念日を忘れず、不倫相手への贈り物も用意し、仕事でも結果を残す。
だからこそ、自分が取り返しのつかない場所へ向かっていることに気づきません。
本作で特に印象に残ったのは、
「願いを言葉にした瞬間、何かを選ばされる気がした」
という一節です。
妻を選べば、恋人を失う。
恋人を選べば、家庭を失う。
何かを望めば、別の何かを手放さなければならない。
それが怖いから、彼は願わず、決めず、考えない。
しかし、何も選ばないこともまた、一つの選択なのだと、この物語は静かに突きつけてきます。
作品の随所に登場する「温かさ」の使い方も見事でした。
妻が作る朝食。
恋人と囲む鍋。
冷えた手を包む手のひら。
熱いシャワーや、一杯のラーメン。
本来なら、人を癒やし、守るはずの温もり。
けれど本作では、その心地よさが主人公の判断を鈍らせ、現実から目を逸らさせるものへと、少しずつ姿を変えていきます。
温められていたのは、彼の身体だけではありません。
見ないふりをされた感情も、
言葉にされなかった怒りも、
笑顔の裏に隠された時間も、
彼の知らない場所で静かに熱を帯びていたのです。
やがて日常の温もりは、逃げ場のない幻想的な恐怖へと反転します。
目の前の出来事は現実なのか。
罪悪感が見せた幻なのか。
それとも、何かに気づかせるための警告なのか。
真実が断定されないからこそ、読後も想像が止まりません。
何も壊さず、うまく生きてきたはずの人生は、本当に無傷だったのでしょうか。
ぬるま湯は、最後まで優しい。
だからこそ、熱くなっていることに気づいた時には、もう以前と同じ場所へは戻れない。
「温める」という穏やかなお題から、静かで不穏な人間の恐ろしさを描き出した、余韻の強い幻想ホラーです。
あなたが今浸かっているその温もりは、本当に安らぎでしょうか。
それとも――。