第四話 師匠登場

黒野は、スマホを机の上に置いたまま、しばらく動けずにいた。

画面はすでに光を失っている。

それでも、あの声だけが、耳の奥に残っている。


『一度……会って、話がしたいです』


その一言が、やけに重かった。


相手は、結婚を控えた女性だ。

軽い意味で言われた言葉ではないだろう。

――一体…どういうつもりだろうか?


黒野は、ゆっくりと息を吐いた。


折り返さなければ、それで終わる。

放っておくことも、できなくはない。


だが――それでいいのか、と自分に問う。


もし、本当に困っているのだとしたら。

もし、誰にも言えずに抱え込んでいる何かがあるのだとしたら。


それを無視するのは、相談屋としても、人としても違う気がした。


それに――

会いたくないと言えば、嘘になる。

会いたい。

そう思っている自分がいることも、はっきりと分かっている。


同時に、今さら、という気持ちもある。

確実なのは、ひとつだけだった。


――二人きりで会うのは、マズい。


結婚間近。

昔、何もなかったとはいえ、何もなかったからこそ、余計に危うい。


自意識過剰か?とも思わないでもない。

通常の依頼人とは、一対一で会っているのだから。


それでも、これは“仕事”とは違う。

考えを巡らせた末、黒野は小さく呟いた。


「……事務所ここだな」


悩み相談として会う。

第三者がいる場所で、距離を保つ。

それなら、自分も、相手も、周囲も、余計な誤解をしない。


そう思ったところで、ひとつの光景が浮かぶ。


――事務所。

――美織。

――自分。

――そして……


「……」


奥のスペースで、コーヒーを啜っている男。


「なに、その顔」


段蔵が、ニヤニヤと笑いながらこちらを見る。


黒野は、何も言わずに視線を逸らした。


――ダメだ。

――あいつは、ダメだ。


「なあなあ」


段蔵が、からかうように声を弾ませる。


「聞こえたよ~。事務所ここで会うん? いいじゃん。オレもいるし」


「……それが問題なんだよ」


「ひどっ」

段蔵は大げさに胸を押さえた。

「オレ、空気読む方だぜ?」


「読めてない」

即答だった。


段蔵は、空気を読む。

そのうえで、面白そうな方へ全力で掻き回す。

だから厄介なのだ。


黒野は、少し考え込み――

そして、別の顔を思い浮かべた。

「そうだ……師匠だ!」


段蔵がきょとんとする。

「姉ちゃん?」


「そうだ」

黒野は頷く。

「師匠がいてくれたら、ほら。女性だし、空気的にもいいだろ?」


段蔵は眉をしかめる。

「え~~。逆に殺伐としそう~~」


「お前は自分の姉を何だと思ってるんだ」

黒野が睨みつける。


段蔵は少し考えてから、ニヤリと笑った。

「なるほど~。元カノへの牽制か?」


「ち・が・う!」

即答だった。


「はいはい」

信用していない顔だ。


黒野は、意を決して電話をかけた。

数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が返ってくる。


『はい、どうした?彦一』


加藤明日奈かとうあすな

段蔵の実の姉であり、黒野の師匠だ。


黒野は、簡潔に事情を説明した。

昔の知人であること。

結婚を控えていること。

会って話がしたいと言われたこと。

私的な再会にはしたくないという判断。


しばらく、沈黙。


『う~~ん……』

少し間を置いて、明日奈が言う。

『気にしすぎじゃない? もしかして元カノ?』


「それは……違う!…と思います」

即答だった。


電話の向こうで、明日奈が小さく笑う。

『ほほう。なんか訳ありっぽいね』

一拍置いて、

『分かった。今日、仕事終わったらそっち行くよ。決めるのはそれからでいい?』


黒野は背筋を伸ばす。

「ありがとうございます」

電話が切れ、室内に静けさが戻った。

黒野は、再びスマホを手に取る。

画面には、美織の名前。


少しだけ迷い、メッセージを打った。


〈事務所でなら話を聞けます〉

〈スタッフもいますが、大丈夫ですか?〉


送信。


スマホを伏せ、机に置く。


――これでいい。

――これは、仕事だ。

そう言い聞かせながらも、胸の奥に、小さなざわめきが残っていた。

――でも文章…他人行儀過ぎたか??


まだ、何も起きていない。

だが黒野は知らない――見えないところで、歯車が回り始めていたことを。







明日奈が事務所に来たのは、二十時を過ぎた頃だった。

カラン、とドアベルが鳴る。

「ごめんごめん、ちょっと遅くなった」


そう言って入ってきたのは、小柄な女性だった。

黒野より頭ひとつ低い身長。

動きに無駄がなく、足取りが軽い。

ラフな服装だが、姿勢がいい。

脱いだ靴を揃える所作にも、迷いがない。


加藤明日奈かとうあすな

近くで「あすなろ気功整体院」を営んでいる整体師だ。



「あ、師匠! お疲れ様です!」

黒野が、珍しく人懐っこい笑顔で迎える。

「コーヒー淹れましょうか?」


「水でいいよ」

そう言って、来客用ソファにストンと腰を下ろす。

出されたペットボトルの水を一口飲み、黒野を見る。

「で。詳しい話、聞こうか」

柔らかな声。

だが、その目は好奇心に満ちていた。


黒野は一瞬、言葉を選び、それから正直に話す。

「正直、分かってることは少ないです。

結婚を控えた女性で……“一度会って話がしたい”って、それだけで」


「ふむふむ。内容は不明、と」

明日奈が簡潔にまとめる。

少し間があいて、

「……それで、なんで私が呼ばれたの?」


黒野は困ったように笑う。

「結婚前の女性と、二人きりで会うのって……やっぱ、マズくないですか?」


「う~~ん……」

明日奈が腕を組む。

「相手の意図次第かな。で、あんたはどう思ってるの?」



「実際さ」

段蔵が横から口を挟む。

「どういう関係だったの? 元カノなら話は別だけど、ただの友だちなら問題なくない?」


黒野は段蔵をまじまじと見る。

「珍しく真面目なこと言ったな……」


「そこかよ!」


黒野は視線を落とし、言いよどんだ。

「みおり……真田とは……」


――言い直した。

――言い直した。

明日奈と段蔵は、同時に思った。



黒野は、記憶の奥に沈んでいく。

――高校の頃。

好きだった。

いつから好きになったのかは、分からない。

仲のいい連中で自然にできたグループの一人。

最初は、ただの友だちだったはずだ。


それが、いつの間にか特別になっていた。


帰り道が一緒になったことが、何度かある。

そのたびに、何か言おうとして――結局、何も言えなかった。


何かが変わるのが、怖かった。


告白も、約束も、何もない。

それでも記憶に残るのは、


「何も起きなかった」


という事実だった。


思考から引き戻されると、明日奈と目が合う。

段蔵は黙り込み、面白そうに二人を眺めている。


「……何となく、お互い意識はしてたと思います。でも、結局は……本当に、何もなかったです」


それを聞いて、明日奈は小さく息を吐いた。

――想いが残っている。

――だからこそ、自分で線を引こうとしている。

――ってとこか。


明日奈は、黒野を一瞬だけ見つめた。

計るような視線。

「まあ、仕方ないか」

肩をすくめる。

「間違いを起こされても困るし。

同席じゃなくて、あくまで“スタッフ”って立場ならいいよ」

「恋バナも興味あるし」


「だから違いますって!」

黒野はしかめ面で答えた。

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