後編 ポケットの中の微熱


​ 魔法瓶の中身が空になる頃には、私たちの体もずいぶんと温まっていた。

 けれど、飲み終えた紙コップを片付けるために手袋を外していた私の左手は、冷たい風にさらされて、白く冷え切ってしまっていた。


​「ごちそうさま。すごく美味しかったよ」


​ 奏太くんが満足そうに息をつく。

 私も微笑んでコップを袋にしまおうとしたけれど、指先がかじかんでうまく動かない。


​「あっ、ごめん……」


​ もたつく私を見て、奏太くんが「詩乃ちゃん」と静かに呼んだ。

 そして、私の手元をじっと見つめる。


​「手、冷たいね」


​ 彼の言葉に、私は慌てて手を隠そうとした。

 せっかく温かい飲み物でいい雰囲気だったのに、私の冷たい手のせいで水を差したくなかったから。


​「ううん、大丈夫。ちょっと風に当たっちゃっただけだから……」


​ そう言って笑って誤魔化そうとした時だった。


​「貸して」


​ 奏太くんが短く言い、私の返事を待たずに左手首を掴んだ。

 そして、ぐいっと自分のほうへ引き寄せる。


​「えっ、奏太くん?」


​ 驚く私の手を、彼はそのまま自分の着ているダッフルコートの、右側のポケットへと滑り込ませた。

​ コートの分厚い生地の向こう側。

 そこは、外の寒さが嘘のような、狭くて温かい暗闇だった。

​ そして何より驚いたのは、その中に先客がいたことだ。

 ごつごつとした、少し大きくて温かいもの。

 奏太くんの右手だ。


​「……!」


​ ポケットの中で、彼の手が私の冷たい指を迎え入れるように包み込む。

 ミケのふわふわとした毛並みとは違う。

 骨ばっていて、少し硬くて、でも確かな体温を持った、男の子の手。


​ 指と指が触れ合い、やがてゆっくりと絡まっていく。

 いわゆる「恋人繋ぎ」という形になって、私たちはポケットの中で一つになった。


​「……奏太くんの手、カイロみたい」


​ 顔が熱くなるのを感じながら、私は精一杯の軽口を叩いた。

 すると、奏太くんが照れくさそうに笑う気配が隣から伝わってくる。


​「詩乃ちゃんの手も、だんだん温かくなってきたよ」


​ 確かに、彼の熱が私の指先へと伝わり、氷のように冷たかった私の手が、じんわりと解凍されていくようだった。

 それはただの体温の移動じゃない。

 彼の優しさと、私を大切に思ってくれる気持ちが、皮膚を通して流れ込んでくるみたいだ。


​「こうやって二人でいれば、寒い冬も怖くないね」


​ 奏太くんが、独り言のように呟く。


​「魔法瓶の紅茶も温かかったけど……こうやって、お互いの体温で温め合うのも、悪くないでしょ?」


​ 私はポケットの中で、彼の手をきゅっと握り返した。


 この温もりを逃したくない。


 そして、私からも彼に温かさを伝えたい。そう強く思ったから。


​「うん……すごく、温かい」


​ かつて私は、誰かに守られ、温めてもらうだけの存在だった。


 でも今は違う。


 こうして手を握り返すことで、私も彼をことができる。


​ 小さなポケットの中で生まれた微熱は、私たちの関係そのものだ。


 見えない場所で、二人だけで密やかに、大切に育てていく温度。


​ 私たちはしばらくの間、言葉もなく、ただ繋いだ手の感触を確かめ合っていた。


 吹き抜ける風の冷たささえ、今は二人の温もりを引き立てるスパイスのように感じられた。


​ 帰り道、夕暮れの空は淡い紫色に染まっていた。


 家の前まで送ってくれた奏太くんと別れ、私は自分の部屋へと戻った。

​ 暖房の効いた部屋は暖かいはずなのに、外で彼と手を繋いでいた時の方が、ずっと心は温かかった気がする。


​ 窓辺に座るミケを抱き上げる。


 以前のように「寂しいよ、助けて」としがみつくためじゃない。

 愛おしさを込めて、そっと抱きしめる。


​「ただいま、ミケ」


​ ミケの刺繍の瞳が、夕日に照らされて優しく輝いて見えた。


​「私ね、自分でも誰かを温められるんだって知ったよ」


​ そう報告すると、ミケは「よかったね」と言うように、静かに微笑んでいる気がした。


​ 窓の外にはまだ冬の景色が広がっている。

 けれど、私の中には消えない灯火がともっている。


 10年間、一人で抱えてきた想いは、今、二人で大切に「温める」愛へと変わったのだ。


​ 私はミケを膝に乗せ、まだ少し熱の残る左手をそっと胸に当てた。


 春が来るまで、あと少し。


 でも、この温もりがあれば、どんなに寒い冬だって、きっと笑顔で越えていける。



​ そう信じて、私は未来へと続く窓の外を見上げた。




​── 終 ──



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