真実

 支払い済みの領収書を持って、俺は鼻歌まじりに帰路を進んでいた。


 今日の俺は何かが違った。

静かな空間でぐっすりと眠ったおかげだろうか。

やっぱり、何もかも隣人のせいだったってことだな。


 翌朝9時に起きた俺は、軍資金を握りしめて競輪場へと足を運んだ。

久々の競輪だ、どうせ昨日と同じだろうと半ば諦めていたのだが、昨日の不運なんてまるで嘘だったかのように、俺は過去類を見ない程の勝利を収めた。

おかげで、溜まっていた支払いを全て終わらせただけでなく、昨晩考えていた通りタバコと酒も買うことができた。

帰ったら祝勝会だ。


 うろ覚えの歌を口ずさみながら、アパートの階段を上っていく。

二階の通路を進もうと視線を上げた時、ふと違和感を覚えた。 

いつもなら見える雑木林が、何かによって隠され見えなくなっている。

……ああ、隣の扉が開いているのか。

遮蔽物の正体に気付き、思わず舌打ちが出る。

俺の部屋は、今扉が全開になっているあの部屋の奥だからだ。

「めんどくせえなあ……」

先程までの笑顔とは打って変わって、不満タラタラな表情で扉に近づいた。


 邪魔な扉を閉めようと取っ手を握ったその時。

「……あら?」

部屋の中から聞き覚えのある声が聞こえた。

声に気付いてしまった俺の視線は、自然と部屋の中へと向かう。

「おかえりなさい」

いつものように痣を"付けた"愛羽あいばが、優しい笑顔を浮かべて挨拶をしてきた。

……血塗れの女を引きずりながら。


 俺は目を見開き、手に持っていた袋を落とした。

落下の衝撃で缶から吹き出したビールが、俺の足元に広がる。

昨日会った時と何も変わらない、彼女の落ち着いた声色が、却って恐怖を掻き立てる。

全身の毛が一気に逆立つのを感じた。


 引きずられている女に視線を移すと、その顔には見覚えがあった。

見るも無惨な姿だが、昨日、愛羽と話していた友人だった。

「この娘、彼と別れろっていつもうるさくて」

絶句している俺に構うことなく、彼女は淡々と話し続ける。

「終いには彼と直接話がしたいなんて言い出すものだから、いい加減うんざりしちゃって。ね、冴野君?」

同意を求めようと彼女が後ろに振り向いたことで、薄暗い部屋の中があらわになる。


 俺はこの時初めて、自分の認識が間違っていたことに気付いた。

部屋の中には、両手足を縛られた上、猿轡さるぐつわまでされた冴野さえのがいた。

以前の面影などない程に顔を腫らした状態で、彼は俺を見つめ必死にもだえている。

まるで「たすけて」と言わんばかりに……。


 昨日、冴野は不規則なリズムで何度も壁を叩いていた。

おそらく彼にとって、愛羽が帰ってこなかった昨日は最大の好機だったんだ。

冴野が傷つける側だと信じて疑わなかった。

そんな自分の決めつけが視野を狭め、結果として、彼のSOSを見逃していた。


 「あなたもきっと、私のことをおかしいと思っているでしょうね」

相変わらず落ち着いた声色で、愛羽は口を開いた。

「けれど、そんなのはどうでもいい。私たちのことは、私たちだけがわかっていればいいのだから」

彼女は悶える冴野に近づき、彼の頬を思い切り叩いた。

あの不快な音が、部屋中に響き渡る。

「そうだよね、冴野君?」

口内が切れたのか、冴野は血を吐きながらゆっくりと頷く。

光のない目から、涙が一粒滴り落ちるのが見えた。

愛羽はそんな冴野を見て微笑むと、今度は自分自身の顔を力強く殴った。

恍惚とした表情で、彼女は自身の頬を撫でる。

「……これが、私の愛。邪魔だけは、絶対に許さない」

静かに呟いた愛羽は、冴野の頬を撫でるとゆっくりと立ち上がり、玄関へと戻ってきた。

立ち竦む俺を一瞥いちべつして、友人を持ち上げると静かに言った。

「あなたはもう、静かにしてくれますよね?」

愛羽は優しく微笑むと、ゆっくりと扉を閉めた。


 俺はしばらくその場から動けなかった。

時折、中から優しい声が聞こえてくる。

あの耳障りな鈍い音と共に——。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

空波あお @sorairo1216

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画