深紅の瓣

深朱

第一章:獲物と捕食者

新宿駅の地下ホームは、死にかけたネオンの瞬きに震える、冷え切ったコンクリートの胎内だった。静寂が完全訪れることはない。それは電気的なノイズと、出口を探して線路を彷徨う紙屑たちの衣擦れが混ざり合った、不気味な合奏だ。故障した電灯が神経質なクリック音を刻んでいる。まるで、この街の残り少ない鼓動をカウントしているかのように。


 無人のホームに、最終電車を待つ小柄な影があった。  サイズの合わない黄色いオーバーセーターは、まるで世界から身を守る殻のようだ。長いスカートが足を隠し、漆黒の髪が顔を覆っている。わずかに見えるのは、陶器のように白い顎のラインだけ。傍らに置かれた動物柄のリュックサックが、この陰鬱な空気に場違いな幼さを添えていた。


 その瞳は、列車を待ってはいなかった。  深く、暗い井戸のような眼差しが、闇を凝視している。そこには恐怖など微塵もない。ただ、自分が「完璧な餌」であることを自覚している者だけが持つ、異様な静寂があった。


 やがて、音がした。靴音ではない、呼吸音だ。  湿った、重苦しい喘ぎが闇から這い出してきた。音もなく現れた男が、少女の隣に腰を下ろす。それは、垢染みた服に包まれた、締まりのない肉の塊だった。使い古されたシルクハットという奇妙な出で立ちが、彼をいっそう不気味な手品師のように見せている。脂ぎった顔に埋もれた眼球が、少女の肌を舐めるように動いた。


「迷子かな……お嬢ちゃん?」  その声は、空気を汚す泥水のようだった。少女は振り向かない。ただ、瞼が微かに震えた。 「……はい」  氷の下で折れる枝のように、乾いた声が響く。


 男は黄ばんだ歯を見せて笑った。厚かましい手がベンチを滑り、少女の太腿を圧迫する。拒絶がないことを確信すると、男の呼吸は獣のような荒い吐息へと変わった。 「そうか、そうか……おじさんが、ママの居場所を教えてあげよう。でも、その前に……」


 突如、男は唸り声を上げて少女の喉を掴み、冷たい壁へと叩きつけた。 「んんぅ……ッ! 少し楽しもうじゃないか……!」  分厚い唇から涎が滴る。鼻息は狂った雄牛のようだ。男は高揚感に手を震わせながら、使い古されたジーンズのジッパーに手をかけた。理性をかなぐり捨て、欲望を満たそうとスカートの裾を無造作に引き裂く。


 だがその瞬間、世界が結晶化した。  男の動きが止まる。その濁った瞳が、驚愕に見開かれた。 「あ……っ!? なんだ……これ……」  布地の裏側で指が触れたのは、期待していた「無垢な脆さ」ではなかった。  少女は顔を上げた。そこにあるのは、魂を吸い込むブラックホールのような双眸。控えめな少女の面影は消え、そこには臨床的な冷徹さだけが宿っていた。  男の延髄に、細い何かが突き刺さる。視界が瞬時に暗転し、肺が悲鳴を上げる暇もなく、闇が彼を飲み込んだ。


 〈ジジ……〉


 工業用ランプの唸る音で、男は目を覚ました。  狭く、灰色の部屋。埃と消毒液の臭いが充満している。男は錆びついた金属椅子に座らされていた。……だが、体が動かない。腕を上げようとしても、筋肉は溶けた鉛のように重い。自分自身の肉体に監禁されていた。 「あ……う……」  舌が痺れ、言葉にならない。


「無駄な抵抗はやめておけ」  声がした。 「超短時間作用型の筋弛緩剤を打った。十分もすれば血中から消えるが、今は……君は自分の体の『乗客』に過ぎない。これから来る時間への練習だと思ってくれ。永遠という場所は、とても静止した空間だからね」


 闇から影が現れた。そこにはもう、無垢な少女の面影はない。  黒いテクニカルウェアを纏った、しなやかな体躯の青年。外科用マスクに顔を覆われ、漆黒の髪をなびかせている。露出しているのは瞳だけ。共感能力を欠いた、絶対的な「虚」を映す鏡。


「目覚めたか。予定通りだ」  青年の声は、メスのように平坦だった。 「この、野郎……! ハメやがったな! 貴様、何者だ!?」  男は叫ぼうとするが、青年が茶色のレザーロールを広げた瞬間、恐怖で息が止まった。中には、完璧に整列した外科器具と銀色のナイフが、鈍い光を放っていた。


「き、聞いてくれ……! 俺を殺す気か!? あの子たちの親戚か何かか!? ああ……あ、俺だってどうしようもないんだ。あんな、滑らかな肌のガキどもを見ると……自分を抑えられないんだ。ああ、頼む……!」  男は捨てられた仔犬のように泣きじゃくった。加害者としての傲慢さは消え、今や哀れみすら誘う姿だ。


 青年は手を止めた。解剖学的な興味を惹かれたように首を傾げ、男を観察する。 「ああ、君のことは誰よりも理解しているつもりだよ。結局のところ、僕たちは同類だ」  青年――エリックは、一本のナイフを選んだ。柄には真紅の絹が巻かれている。彼のお気に入りだ。 「僕にも、自分の中の『空白』を埋めようとする衝動がある。君の想像も及ばないほど深い、根源的な欠落だ。すべてが静まり返った時にだけ叫び出す沈黙。君もそれを埋めたいんだろう? 全身の細胞で、それを求めている」


 男は返す言葉を持たなかった。 「だが、僕たちの間には決定的な違いがある」  エリックは猫のような優雅さで歩み寄る。 「君は汚れた本能のまま、消費のために破壊する。僕は、自分を『有用』だと感じるために行う。君たちが『生きる』と呼ぶものに、意味を与えるために。君のような社会の澱みを排除するのは、バランスを保つために最も論理的な方法だ」


 人間とは思えない、異邦人のような口調だった。 「何を……わけのわからねえことを……! 狂ってやがる!」  エリックは不快そうに溜息をつき、エーテルを含ませた布で男の口を塞いだ。


 そして、顔を近づけ、男の瞳を至近距離で覗き込む。 「安心しろ。人体構造は熟知している。心臓が『裏切られた』と気づく暇もないほど、一瞬で終わらせてあげるよ」


 銀色の刃に、男の絶望が反射する。  鋭利な先端が、第四肋骨と第五肋骨の間にミリ単位の精度で設置された。一瞬の静寂。ランプのノイズさえ、これから始まる「芸術」に敬意を表して止まったかのように思えた。  男の瞳が、命を奪う銀色の刃を凝視し、震える。誰にも嘆かれず、誰にも復讐されない、無意味な人生の終焉。


 ――次の一瞬、鮮やかな一突き。  刃は、ようやく明かされた秘密のように、容易く心筋を貫いた。肉を裂く鈍い音が部屋に響く。男は一度だけ大きく痙攣し、指が椅子の金属を掻き毟った。やがてその瞳から光が消え、エリックの「虚」へと吸い込まれていった。


 エリック・影山は、動かなかった。  柄を握ったまま、鋼鉄を通じて伝わる肉体の余熱を感じている。ほんの短い、刹那の時間。胸の中に温かいものが広がる。空白が消えた。彼は、ようやく「生きている」と感じられた。


 儀式のような手つきで、ゆっくりと刃を引き抜く。床には一滴の血も落ちていない。男の袖でナイフを拭い、整然とした動作で片付ける。 「……綺麗な仕事だ」


 鉄の扉がゆっくりと閉まる。闇に取り残されたのは、ナイフを握らされた死の肉塊だ。格闘の跡も、血飛沫もない。衣服の下に隠された、肋骨の間の小さな穴だけが唯一の真実。  第三者がこの部屋に入れば、それは凄惨な現場ではなく、自らの醜悪な欲望に耐えかねた男が、身勝手な最期を選んだ「完璧な自殺」に見えるだろう。


 エリックを苛んでいた虚無は凪ぎ、嵐の後の海のような静けさに変わっていた。  マスクを外すと、疲れ切った青年の顔が現れる。スマートフォンを取り出し、時間を確認した。午前四時。 「……女装して変質者に襲われるなんて、土曜日の夜の過ごし方としては最悪だな」  エリックは小さく欠伸を漏らし、独り言を呟いた。 「明日は講義か。……机で寝落ちしないといいけど」


 彼は背を向け、去っていった。死と偽りの尊厳が残された部屋を後にし、目覚め始めた東京の胎内へと消えていく。

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