紫陽花の君へ捧ぐ森の愛~トラウマ花屋と一途なスパダリ社長のオメガバース~
藤宮かすみ
第1話「紫陽花の咲く片隅で」
湿ったアスファルトの匂いが、開け放った店のドアから流れ込んでくる。梅雨時の重たい空気は、ガラスケースに並んだ花々の甘い香りと混じり合い、独特の気怠さを生んでいた。
俺、藍沢湊は、カウンターの奥で黙々と紫陽花の葉を剪定していた。客のいない午後の時間は、いつもこうして過ぎていく。
『フルール・リリエン』。
この小さな花屋が、今の俺の世界の全てだ。
色とりどりの花に囲まれ、土の匂いを嗅いでいる時だけ、俺は自分がただの「藍沢湊」でいられる気がした。オメガであることも、あの忌まわしい過去も、ほんの少しだけ忘れられる。
チリン、とドアベルが鳴った。顔を上げると、上質なスーツに身を包んだ男が立っていた。梅雨空をそのまま閉じ込めたような、静かな灰色の瞳。整いすぎた顔立ちは、まるで作り物のようだと思った。
こんな場違いな高級スーツの客は珍しい。
「いらっしゃいませ」
感情を乗せない、いつもの声で告げる。男は店内をゆっくりと見渡すと、まっすぐにこちらへ歩いてきた。一歩近づくごとに、空気が張り詰めていくのを感じる。アルファだ。それも、相当に格の高い。
抑制剤は飲んでいる。だが、本能が警鐘を鳴らしていた。逃げろ、と。
指先が微かに震えるのを、固く握りしめて隠した。
「贈り物用の花束を。落ち着いた雰囲気で、あまり派手ではないものを」
低く、よく通る声だった。落ち着いているのに、不思議な圧がある。俺は頷き、花を選ぶためにガラスケースへと向かった。
彼の視線が、ずっと背中に突き刺さっている。息が詰まりそうだ。
デルフィニウムの青、トルコキキョウの紫、そして白いカラー。雨の日の静けさをイメージして、手早く束ねていく。花の茎を切りそろえるカッターの音が、やけに大きく店内に響いた。
『お前みたいな出来損ないのオメガ、うちの家に入る資格なんてない』
不意に、脳裏であの声が蘇る。蔑むような目。一方的に番の関係を破棄された、あの日の絶望。
カッターを持つ手に力が入りすぎた。指先に、ぷつりと赤い玉が浮かぶ。
「あっ……」
慌てて指を隠したが、遅かった。男の灰色の瞳が、俺の指先を捉えている。
「大丈夫ですか」
「いえ、平気です。よくあることなので」
愛想笑いすら浮かべられない。早くこの場から立ち去ってほしかった。ラッピングを済ませ、震える手で花束を差し出す。
「……とても、いい」
男は花束を受け取ると、ふっと息をのむようにつぶやいた。その視線は花束ではなく、俺に向けられている気がした。
「あなたのようです」
「え?」
「この花、あなたに似ている。静かで、凛としていて……どこか儚い」
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。何を言っているんだ、この男は。
アルファ特有の、心の中を見透かすような言葉。俺は顔を伏せた。
「お会計、5000円になります」
事務的に告げると、男は黒いレザーの財布からカードを取り出した。その指先が、会計の際に俺の指に触れる。びくりと肩が跳ねた。触れた箇所から、熱が伝わってくるようだ。
「また来ます」
カードを受け取り、男はそう言い残して店を出ていった。
ドアベルの音が遠ざかると同時に、俺はその場にへたり込んだ。全身から力が抜けていく。
『抑制剤、ちゃんと効いてるよな……?』
フェロモンは漏れていないはずだ。それなのに、あのアルファの存在感は、俺の奥底に眠るオメガの本能を無理やり揺さぶってくる。
あの静かな瞳。低い声。そして、俺に似ていると言った、あの花束。
もう二度と、アルファとなんて関わらない。
運命だとか、番だとか、そんなものに騙されない。
そう固く誓ったはずなのに。
店の窓から外を見ると、雨がまた降り始めていた。ガラス窓を伝う雨粒が、まるで泣いているように見えた。
俺は、切った指先をぎゅっと握りしめる。痛みだけが、今の俺がここにいる唯一の証だった。あの男が残していった、深く落ち着いた森のような香りが、まだ店内に漂っている気がして、俺は息を詰めた。
明日から、どうしよう。
ただ、明日もまた、いつもと同じ日が来ることだけを願っていた。
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